【要約と感想】山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』

【要約】正義とは古代においては四大枢要徳の一つで、中世においては他の知恵・節制・勇気とは異なる性質を持つものとして議論される一方、スコラ学がプラトンの魂の三区分やアリストテレスの正義論を引き継いだり、あるいはキリスト教の愛の観点から「義」に対するまったく別の論点が示されるなど、多様な議論が行われました。
 検討の対象となっている主な思想家は、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、エピクテトス、アンセルムス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、フォンテーヌのゴドフロワ、スコトゥス、ジャン・ビュリダン、スピノザ、カントです。

【感想】知らないことだらけで勉強になった。知的刺激になるので、定期的に他流試合はするべきだ(というか最近は他流試合しかしていない気もする)。
 論点としては、正義は「客観的にある/個人の習慣」、「普遍的/個別なものの集合」、「自由意志/信仰」、「法/権利」といった組み合わせで展開するというところか。

【個人的な研究のための備忘録】人格論
 個人的な興味関心の対象である「人格」についても様々な言及があったのでサンプリングしておくのだった。

「私たちがキリスト個人に正しさを認め信仰するとき、正しさの形相そのものを、私たち自身のうちに分け持つことになる。しかもその形相は、義なる神において存在するだけでなく、キリストのうちにも神性にそくして存在している。そのため、キリストを正しさの模範とするとき、人々は義なる信徒としてキリストに属しながら、自己と神との間に正しい支配関係を成立させる。そして神の義に適うような正しい人として人格的な完成に至ることができる。このような仕方での人格的な完成や幸福の生の獲得に、アウグスティヌスの正義論は関わっている。」75-76頁
「たとえ義人が最後の審判の日まで厳しい状況にあり続けたとしても、この世で意のままにできる力を得ようとせずに、まずは善き意志で人格的な完成を目指す方が、神の義に適う可能性は高くなる。」89頁
「神が人性をとって一つのペルソナとなったキリストを模範として、人間たちは人格の完成や平和な共同体を目指すべきだとされる。」89頁

 ここでは「人格の完成」の中身が、神と人が一つのペルソナとなったキリストを模範として神の義に適う正しい人、となっている。つまり、単なる人間性をどこまで高めていっても人格は完成しない。神性(の一端)を獲得することで初めて人格は完成する。教育基本法に「人格の完成」を押し込んだ文部大臣田中耕太郎は、カトリック信者の立場から正しく上記の意味で「人格の完成」を理解していたはずだ。逆に言えば、カトリック思想を外れたところでは「人格の完成」の意味がまるで分からなくなる。「完成」ってなんだ?ってことになる。つまり、戦後直後に文部省が人間性の多面的な発達という観点から「人格の完成」を語り始めたときに、もはや意味が通じなくなっている。

アンセルムス「神にとって真理、直しさ、義とは同一のことだからである。つまり、神については、直しさはその完全な自己同一性を指示する概念である。」98頁
「被造物は、その存在を神に負い、各々が「存在すべきこと・行うべきこと」を遂行する。それゆえ、直しさとは、神と被造的な世界との関係・構造を指示すると同時に、そこにおいて神へと開かれ、神を志向する被造物の自己同一性の遂行を指示する動的な概念である。」99頁
「いずれにせよ、神の意志に服従しなかったことによって、人間は神の意志と分裂し、また自己自身における意志の分裂、他者の意志との分裂が生じることになる。神からの疎外と同時に、自己自身からの疎外、他者との疎外も生じる。人間の自己同一性は失われたのである。これが罪・不義ということの根本的な事態であろう。」105頁
「救済の中心にあるのは、キリストの義である。キリストの義による救済は、原罪によって歪んでしまった神と人間の関係、人間の自己自身そして他社との関係を真っ直ぐにし人間の自己同一性を回復するものであった。」108頁

 正義とは自己同一性を維持することであるとは、そのままそっくりプラトン『国家』の主張である。さらに、キリスト教の神の義の観点から自己同一性の遂行を指示する動的な概念として示されているとのことだが、もちろんこの視点もソクラテスの言う「アレテー」の概念と響き合っているし、プラトン『国家』の結論でもある。ということで、アンセルムスは明らかにプラトン正義論から霊感を受けているのであったが、すべてキリスト教にアレンジされているのであった。

「中世の大学において正義とそれに関わる基本的語彙の理解について一二~一三世紀に分化が進行していったということ、その分化が今日の法学部と人文学部での「正義」の扱いに遠く影響を与えているということはあり得ることである。」131-132頁

 これは興味深い仮説である。さらに雄弁術等「人文学」一般への影響が分かると、テンションが上がる。

フォンテーヌのゴドフロワ「個別的な善をめざす他の諸徳から区別されるかぎりで、一般的徳がめざす共通的なものは、諸々の個別的なものからの抽象によって共通的あるいは一般的なのではない。むしろそれは何らかの一なる個別的全体である。なぜならこの場合、数的に一なるものがたしかに共通的であり、国家、州、王国において見られるように、それは多くの個別的なものをいわば全体を構成する諸部分として含むからである。これはちょうど、世界全体は何らかの一なる個別的なものでありながら、すべての個別的存在を含んでいるから、ある意味で共通的であるのに似ている。」164頁
「以上のような議論をゴトフロワ自身は第二問末尾で、正義は形相的対象の一性という観点からは特殊的だが、質量的対象の共通性という観点からは一般的であると要約している。」175頁

 「人格」の本質を考える上で重要な論点を含んでいる。「一と多」の弁証法という、キリスト教では三位一体論に当たる論点ではある。ちなみに本書でも序章で名前が出てきたマリタンは、質量的な「個性」は特殊的だが形相的な「人格」は一般的だと論じた。中世の議論がどの程度まで近代の「人格」論への射程を持っているか、気になるところである。

山口雅広・藤本温編著『西洋中世の正義論―哲学史的意味と現代的意義』晃洋書房、2020年