【要約と感想】デカルト『情念論』

【要約】昔の人が情念について語っていることは全部デタラメです。
 第1部では身体と精神を区別した上でそれぞれのメカニズムを解明し、相互の関係性を踏まえて情念の動きを説明します。第2部では情念を6つの基本形に分類してそれぞれ説明します。第3部ではさらに特殊な情念について個別に説明します。
 情念とは外界からやってくる刺激に対する受動的な反応なので、意図してなくすことはできませんし避けられませんが、欲望の達成は大きな満足を与えるので、情念を操縦してよいものを取り出す知恵と習慣と理性を兼ね備えている人が最も幸福です。

【感想】現代的な科学的水準からすれば、松果腺や心臓のメカニズム、動物精気に関する議論は荒唐無稽ではあるが、もちろんそのデカルトの限界はデカルトの個人的資質のせいではなく、時代的な制約だ。
 本書の見どころは、古代から中世を通じて押さえつけるべき悪として語られてきた「欲望」を完全に解放しているところだろう。あっけらかんと解放している。これもデカルト個人の資質に還元するのではなく、当時の社会的状況を踏まえて考える必要がある。デカルトが活躍した17世紀前半は、科学革命と産業革命の前夜であり、資本主義の揺籃期に当たる。対外貿易で栄えたオランダ(デカルトはフランス生まれだがオランダで活動していた)は商品経済の最先端地域だった。商品経済を活発に回すためには、人々の購買意欲を煽る必要がある。資本主義にとって、欲望とは押さえつけるものではなく、煽るものである。商品経済と無縁だった古代と中世においては、人間の欲望を煽って良いことなど何もない、というかロクなことがない。キリスト教は(に限らず仏教もイスラム教も儒教もストア派も)欲望を押さえつけるよう努力していた。しかし、資本主義は欲望を煽ることで発展する。欲望を(煽らないまでも)積極的に肯定するデカルトが立っているのは、もちろん資本主義の側である。
 そんなわけで、本書は単に心理学や生理学の古典として読むというより、経済史的な関心を持って当たるべきテクストだと思う。資本主義の発展を土台から支える「人間の欲望の肯定」は、フランスのモンテーニュとデカルトによって明示された。(いちおうさらに早いところではイタリアルネサンスのロレンツォ・ヴァッラに見られるが、まだ表現は抑制的だ)

【個人的な研究のための備忘録】
 人格や個性に関わる記述は皆無である。気になったところをサンプリングしておく。

「子供と老人は、中年のひとより泣きがちであるが、異なる理由でそうなっている。(中略)子どもたちは、喜びのために泣くことはめったになく、悲しみのためによく泣く。」111-112頁

 本書内で子どもに関する記述は驚くほど少ない。デカルトがまったく子どもに関心を持っていないことがよく分かる。

欲望については、異なる認識から生じたとき、それが過度でなく、しかもその異なる認識によって統御されていれば、悪いものでありえないことは明白だ。」119頁
「このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」126-127頁
「なお、精神は精神独自の快楽を持ちうる。だが、精神が身体と共有する快楽については、まったく情念に依存するものであり、したがって、情念に最も動かされる人間は、人生において最もよく心地よさを味わうことができる。」180-181頁

 エピクロスもびっくりの快楽と欲望肯定だ。しばしばエピクロスは快楽主義者と決めつけられるが、実際には情念から解放されることで真の快楽を得ようと主張していて、情念を積極的に肯定するデカルトとは真逆の主張をしている。デカルトに見られる快楽肯定は、モンテーニュに近い。デカルトがどの程度モンテーニュから影響を受けているかは、本書テクストからは分からない。

「自由意志はわたしたちを自身の主人たらしめ、そうしてわたしたちをある意味で神に似たものとするからである。」134頁

 ストア派的な文脈から出て来る文章だが、ここだけ見ればアウグスティヌスが聞いたら卒倒しそうな、ペギラウス主義だ。いやむしろ、ペギラウスが自由意志でもって善行を積むことを唱えていたことを思えば、自由意志によって情念をコントロールしようというデカルトの主張は論外ということになりそうだ。

■デカルト/谷川多佳子訳『情念論』岩波文庫、2008年