目次
基本データ
【生年】天保15年8月2日(1844年9月13日)(『近代名士之面影』33頁などには弘化元年8月8日とあり、それらに倣ったであろう資料も大量に散見されるが、弘化と改元されたのは12月で、そもそも弘化元年に8月は存在せず、生年は天保15年が正しい。国立国会図書館「近代日本人の肖像」は正確)。
陸奥宗光、井上毅などと同い年。
【没年】明治40年(1907年)5月26日
【出身】千葉県長生郡長南町
略年表
和暦 | 西暦 | 歳 | 事項 |
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天保15年8月2日 | 1844年9月13日 | 0 | 千葉県長生郡長南町(上総国埴生郡長南宿35番屋敷)に生誕 |
嘉永2年 | 1849年 | 5 | 母39歳で死去、叔父の家に預けられる |
安政6年4月6日 | 1859年 | 14 | 日本橋区田所町の仕立屋鳥居清吉方に年季奉公 |
慶応4年 | 1868年 | 23 | 帰郷し4月から自宅で裁縫する傍ら裁縫教育活動開始 |
明治2年 | 1869 | 25 | 結婚 |
1874 | 30 | 長南小学校に授業生試補として招かれ裁縫の授業を担当する。 雛形尺 ・袖形 ・褄形を考案する。 |
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1877 | 33 | 裁縫授業用としては最初のものである「裁縫掛図」を著し、一斉授業を行う。長南小学校助教となる。12月に長男滋誕生。 | |
1878 | 34 | 千葉県市原郡(現在 の市原市 )鶴舞小学校の兼務 を無報酬 で引き受ける | |
1879 | 35 | 千葉女子師範学校校長那珂通世の依頼 により、鶴舞の兼務 を辞し、同校の教師補となる。 | |
1880 | 36 | 「普通裁縫教授書」全3巻を著す。後に尋常師範学校用図書 の指定 を受け、広く使用され30数版を重ねる。 | |
1881 | 37 | 本郷区湯島4丁目 3番地に、私塾「和洋裁縫伝習所」を開設 (現在 の東京家政大学)。千葉女子師範学校教員を辞し、東京女子師範学校(現在のお 茶の水女子大学)裁縫科教員となる。積り方に算式を用いた「普通裁縫算術書」を著す。 | |
1882 | 38 | この年改良服を考案 する。全文かな書きの裁縫書、「たちぬひのをしへ」全2巻を著す。 | |
1883 | 39 | 文部省御用掛を拝命 、改めて東京女子師範学校勤務となる。准判任官待遇 | |
1884 | 40 | 校舎 を本郷区東竹町25・26番地に移転 | |
1885 | 41 | 文部省より女子師範学校裁縫科教員免許状受領 | |
1886 | 42 | 東京女子師範学校を辞職。共に辞職した宮川保全、那珂通世らと共に、和洋裁縫伝習所内に共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を創設 。女子職業学校は本郷区弓町2丁目に移転 。(その後、更に神田区錦町2丁目1番地に移転) | |
1887 | 43 | 山田美妙 らと改良服について討論し、実物 を世に出して好評 を得る。 | |
1892 | 48 | 和洋裁縫伝習所を拡張 、東京裁縫女学校と改称 し官の認可 を得る。卒業生 の発起 により、同窓会発会式を行う。 | |
1895 | 51 | 、大日本女学会創立と同時 に講師 を委嘱 され、通信教育 により裁縫を教授 する。逝去までの13年間に指導を受けた生徒は約4万名に達する。 | |
1896 | 52 | 東京裁縫女学校の生徒が100名を超え、東京裁縫女学校の校務に専念するため共立女子職業学校を辞職する。 | |
1897 | 53 | 「裁縫教科書」全3巻を著す。東京女子高等師範学校校長の依頼 により裁縫教授細目三種 を調製 | |
1898 | 54 | 日本体育会特別賛助会員。千葉教育会と共著 の「裁縫教授案」を発行 。「婦人改良服指南」を著す。生徒数 400名に達す | |
1899 | 55 | 東京府教育会終身会員。本郷区東竹町34・35番地に土地 (277.95坪)と建物を購入、改修 して移転 。生徒数 800名に達す | |
1900 | 56 | 教授用 の「裁縫掛図」を著す。日本赤十字社正社員、12月終身社員。長男滋 、東京裁縫女学校幹事補となり渡米留学。その後欧州視察(〜35) | |
1902 | 58 | 第1回教員養成講習会を開く。(5科目6ヶ月間 )以後 、明治 40年までに計6回開催。長男滋帰国、新式洋服裁縫を教授 | |
1903 | 59 | 校歌 を制定 する。「婦人改良服裁縫指南」が出版される。 | |
1905 | 61 | 千葉県教育会より教育功労者に選定 され | |
1907 | 63 | 5月26日逝去、谷中墓地に葬られる。戒名 真如教厚院鑑照日辰大居士。長男渡辺滋が校長 に、那珂通世・坪井正五郎・藍澤昌貞の三氏 が相談役に就任。 | |
1908 | 渡辺滋編 「渡邊先生遺稿 新裁縫教科書」全3巻出版 | ||
1910 | 渡辺滋編 「渡邊先生遺稿 渡邊裁縫講義 普通部」「渡邊先生遺稿 渡邊裁縫講義 高等部」出版 | ||
1911 | 校長渡邊滋の寄付行為により「財団法人私立東京裁縫女学校 」設立 |
リンク
■渡邉辰五郎・青木誠四郎コレクション(東京家政大学図書館)
■近代日本人の肖像 渡辺辰五郎(国立国会図書館)
■千葉県長南町役場「郷土の偉人」
■渡辺辰五郎(Wikipedia)
■キャンパス万華鏡「渡辺辰五郎と裁縫技術」日本私立大学協会
聖地
■生地:上総国埴生郡長南宿35番屋敷(現在は千葉県長南町2550番地):天保15年
■奉公先:日本橋区田所町(現在は中央区人形町)の仕立屋鳥居清吉方
■赴任地:長南小学校(明治2年)校舎=長円寺。小出三平校長。裁縫教授書の執筆。
■私塾「和洋裁縫伝習所」本郷区湯島4丁目 3番地(明治14年)
■移転地:本郷区東竹町25・26番地
■共立女子職業学校:本郷区弓町2丁目→神田区錦町2丁目1番地
■墓地:谷中墓地乙3号2側
■頌徳碑:千葉県長南町、長福寿寺(昭和25年)永野たけ
関係人物
■那珂通世:千葉女子師範学校や東京女子師範学校へ辰五郎を招聘。遺言を託す。
・故那珂博士功績記念会『文学博士那珂通世君伝』(1915年)14頁に、千葉女子師範学校に渡辺辰五郎を招聘した記述あり。
■坪井正五郎:人類学者。辰五郎と親交深い。遺言を託す。
■塩澤昌貞:経済学者。遺言を託す。
■小池民次:千葉県の教育者。女子教育発展に尽くす。
■小西信八:後年までの親友。
■宮川保全:東京女子師範学校の同僚。女子職業学校(共立女子大学)創設メンバー。
■手島精一:女子職業学校(共立女子大学)創設メンバー。
■今村(矢田部)順子:東京女子師範学校の教え子。東京女子高等師範学校裁縫教授担当教授。教科書執筆。
■神田順子:東京女子師範学校の教え子。東京女子高等師範学校教授。教科書執筆。
■竹内豊子:東京女子師範学校の教え子。裁縫界の重鎮。
■伏見藤三郎:手芸家。教授法を辰五郎に倣う。
■元田直・岩本善治・山田美妙・弘田医学博士:女子改良服関係者。
著書
▼渡邉辰五郎・青木誠四郎コレクション(東京家政大学図書館)
※以下に列挙する著書は、こちらの機関リポジトリのデジタルアーカイブで閲覧することができます。
■『普通裁縫教授書 上』明治13年
■『普通裁縫教授書 中』明治13年
■『普通裁縫教授書 下』明治13年
■『普通裁縫算術書』明治14年
■『たちぬひのをしへ1』明治15年
■『たちぬひのをしへ2』明治15年
■『裁縫教科書1』明治30年
■『裁縫教科書2』明治30年
■『裁縫教科書3』明治30年
■『裁縫教授案』明治31年(千葉県教育会と共著)
■『夫人改良服指南』明治31年
■『夫人改良服裁縫指南』明治33年
■『新裁縫教科書1』明治41年
■『新裁縫教科書2』明治41年
■『新裁縫教科書3』明治41年
史料
一次史料
■大日本女学会通信教育(明治28~40)
■「裁縫雑誌」(同窓会誌の役割も)明治36~
■東京裁縫女学校(1906)『東京裁縫女學校一覧』
■小林甚作編(1908)『渡辺辰五郎君追悼録』 東京裁縫女学校出版部
■東京裁縫女学校(渡辺滋)編、吉村千鶴子・中川真砂子閲(1908)『新令適用裁縫教授法』東京裁縫女学校出版部
※pp.11-12に渡辺辰五郎の人柄や実践に関する記述あり。
■私立東京裁縫女学校(1909)『私立東京裁縫女学校一覧 明治42年』
■私立東京裁縫女学校(1911)『私立東京裁縫女学校一覧 明治44年』
■寺部だい(卒業生)(1962)『おもいでぐさ 寺部だい自叙伝』
■林宏一(2015)「≪資料紹介≫校祖渡邉辰五郎翁の手跡 : その2」東京家政大学博物館紀要 20 149-159
■林宏一・鴻池由香里(2013)「≪資料紹介≫ 校祖 渡邉辰五郎翁の手跡」東京家政大学博物館紀要 18 113-120
■林宏一(2011)「≪資料紹介≫ 校祖 渡邉辰五郎翁の書簡」東京家政大学博物館紀要 16 185-198
■林宏一・高橋佐貴子(2014)「≪資料紹介≫渡邉滋あて坪井正五郎書簡一覧―二代目校長渡邉滋と坪井正五郎―」
※上田万年や沢柳政太郎との関連もあるか。
二次史料
■共立女子職業学校(1911)『共立女子職業學校二十五年史』
■矢部新太郎編(1914)『近代名士の面影第1集』竹帛社、33-34
■新治韜堂編(1929)『渡辺辰五郎翁伝』渡辺交友会、2009年複製版発行
※伝記の基礎文献。後年の小伝等は、ほぼこの本からの引用。生年についてはこれに先行する諸史料も間違えているものの、それを踏まえた本書から誤りが広がっていると推測する。
■常見育男(1940)『創立六拾周年記念 明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』財団法人渡邊学園
※広範囲にわたる極めて重要な史料集成。渡辺辰五郎を先達者として極めて高く評価している。
「明治十三年刊行の『普通裁縫教授書』は全三巻すべて裁縫指導の要点指導事項を問答体に記してゐる。(中略)此の問答法は開発教授の一方法である。開発教授は明治十一年高嶺秀夫が外国より帰朝して後伊澤修二と共に東京師範学校にて行つたに始まり、同十六年同校訓導若林虎三郎、白井毅の共著『改正教授術』の刊行に依つて全国に弘まつたものである。此の頃氏は裁縫教授の改善に心を砕いてゐた際であるから、其の問答式教授法は、或は高嶺等の影響もあつたかも知れぬが『普通裁縫教授書』は明治十三年五月の刊行であるから『改正教授術』に先立つこと三年で、全く氏自身の工夫創案とみるべきである。」(18-19頁)
「以上の衣服科又は衣類科の新教科名提唱によつて明瞭なる如く、教育としての裁縫即ち裁縫科其物の本質が不分明である所に裁縫教育上の一大欠陥があるのである。従つて裁縫教育に対する刻下焦眉の問題は裁縫科それ自身の本質の究明にある。今後は裁縫科教師全体がこの根本問題解決のために深刻なる批判を加へることを忘れてはならない。」(82頁)
「教授方法の工夫と教科の本質を閑却した所に教育としての裁縫科はない。この点に就て現在の裁縫科教師は静思反省する必要があるであらう。」(87頁)
■桑田直子(1998)「『明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』解説」『日本教育史基本文献・史料叢書58明治以降裁縫教育史大要 裁縫関係法令抄』大空社
■『創立六十年史』
■校祖生誕150年記念誌委員会編集『女子教育の先駆者 渡辺辰五郎と今日の教育』東京家政大学、1994年
■仁茂田弘「辰五郎のふるさと長南町」東京家政大学生活資料館『館報』No.22、1994年秋の号
■山本悠三「渡辺辰五郎小伝」東京家政大学生活資料館『館報』No.22、1994年秋の号
■長南町教育委員会編『渡邉辰五郎ってどんな人?』長南町教育委員会、2018年
■三友晶子執筆・三友晶子・太田八重美編集『辰五郎と滋の見た明治の衣生活大転換』東京家政大学博物館、2017年
女子職業論史料
■中蔦邦(1993)『近代日本における女と職業』近代女性文献資料叢書、大空社
■春陽(1917)『自活の出来る女子の職業』洋光社出版部
■鴨田坦(1913)『現代女子の職業と其活要』成蹊堂
■伊賀歌吉(1907)『婦人職業論』実文館
■菅原臥竜(1906)『新撰女子就業案内 : 附・名家譚叢』便利堂
■近藤正一(1906)『女子職業案内』博文館
■木下祥真(1905)『女子の新職業』内外出版協会
■落合浪雄(1903)『女子職業案内』大学館
■福良虎雄(1897)『女子の職業』普及舎
書籍・論文
渡辺辰五郎と和洋裁縫伝習所
■神辺靖光・長本裕子(2021)『花ひらく女学校―女子教育史散策明治後期編』成文堂
女子高等師範学校の高嶺秀夫がカリキュラム改革によって文科・理科・技芸科のコース制にしたことに触れた上で、「(前略)技芸科は裁縫・編物・刺繍・割烹・衛生・衣食住・育児・看護・家計簿記等を学ぶコースである。このコースを別名「家事科」と呼んだ。この中で裁縫は一般に重視され、多くは旧来の裁縫師匠の伝統を引きずった教員によって行なわれてきた。天才・渡辺辰五郎によって改革された裁縫教師も居たが、日本全体から見れば少数であった。」p.372
■神辺靖光(2019)『女学校の誕生―女子教育史散策明治前期編』梓出版社
※女子教育史全般を扱う本だが、そのうちの一章を「裁縫手芸系の女学校」に宛て、和洋裁縫伝習所について詳述している。また江戸末期から明治期にかけての裁縫教育の状況について、各所で言及している。
「機織をしなくなったというのは、江戸後期にはマニュファクチュアーの時代になって、機織は近郊在地の地場産業化して、江戸市中には機織がなくなっていた。縫い仕事も、専門の仕立屋、ないし寡婦の仕立業があったからであろう。」p.24
「桑を食わせた蚕から糸をとり、布にして立ち縫って着物に仕上げる一連の技術が女のわざ、即ち女功=女工なのである。
古代・中世のある頃まではそうであった。宮廷、貴族、豪族が生き生きした時代、そこの女性は、この一連の技術を駆使して一族郎党の衣類を調達していたに違いない。しかし時代が下って分業が進むと養蚕と紡績は専門業となり、裁縫だけが家庭の女の仕事として残ったのである。」p.80
「明治・大正・昭和を通じて”お裁縫”は女子教育を語る時、離すことができない言葉であった。良家の娘が近所の裁縫師匠に裁縫を習い、主婦ともなれば家族の衣服を整える習慣は江戸時代に胚胎した。明治期には学校教育で、特に女学校で裁縫が教科の中で重視され、昭和戦前期まで裁縫は普通の家庭の主婦の教養として拡まった。
明治前期はこれまで個別に裁縫師匠で習った裁縫を学校という集団授業の中でどう学ばせるか苦心した時期である。」p.253
「かくして各地に裁縫女学校ができはじめたが個別指導であった裁縫を学校という一斉授業で行なうようになると特殊の知識技術を持つ教師が必要になる。ここに渡辺辰五郎という天才的教師が現れて各地の女学校、女子師範学校で裁縫を教え、教具教材を作った。渡辺は私立東京裁縫女学校(現東京家政大学)を創立し裁縫教師の養成に尽した。」p.254
辰五郎の長南小学校での取組みを詳述し、「かくして千葉県上総の長南、鶴舞の二つの女児小学裁縫授業は成功裡に進展したのである。明治十二年の「教育令」で「女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ(第三条)」と「学制」の「小学教則」を修正したのは女子ノ裁縫授業が全国的に拡まっていたからである。」p.262
「那珂校長が”田舎に残して置くには惜しい”と言った渡辺の才能は学校における裁縫授業の開発であった。これまで裁縫は家庭で母親が教えるか、または裁縫上手な女性が教える裁縫塾(関東でいうお針屋)の個別指導である。ところが、明治になるとこれを学校で、多数の生徒を同時一斉に教えねばならなくなった。大勢の生徒を同時一斉に教えるこの方式に旧来の裁縫塾師匠は対応できなかった。」p.263
「渡辺は明治十年『裁縫掛図』を著した。この掛図は千葉県庁を経て文部省に提出され、教育博物館に陳列された。学校の教具教材が出揃わない時期で、この掛図は珍重された。長南小学校の裁縫一斉授業に立ち会って掛図の有効性がひらめいたのであろう。これ一つをとってみても渡辺のただならぬ直観と思考力がわかる。千葉女子師範学校の教員になってからは『普通裁縫教授書』上中下三冊(明治十四年)、さらに、ここに述べた積り方と裁ち方を理解させるための練習書として『普通裁縫算術書』(明治十五年)を続刊した。布、織物などの生地を人体の部分に合わせて裁つ。その見積もりを計算する。若年の頃の仕立屋修行が役立ったであろうが、それを当時の算術で解き明かした渡辺の才覚は尋常のものではない。これらは最良教科書として全国に普及した。」p.264
「学校で裁縫を教えると言っても裁縫教員を養成するところがなかった。ここに渡辺辰五郎という天才的な裁縫教師が現れて女子師範学校や独自の渡辺裁縫女学校で裁縫の専門教師を養成する。さらに女性の職業的独立を目指した共立女子職業学校の成立によって裁縫手芸の教育は中等教育の一つに位置づけられ、さらに高等専門教育機関としての発展が展望されるようになったのである。」p.286
■池田仁美(2016)「明治末期から大正期におけるミシン裁縫教育―シンガーミシン裁縫女学院の教育活動と実物教材の検討―」武庫川女子大学『生活環境学研究』巻 4, p. 56-61
※ミシンを使用した裁縫教育の源流として渡辺辰五郎を評価。本格的な米国式製図による洋裁教育は、渡辺滋から学んだ卒業生矢野元子(主席教師)を介してシンガーミシン裁縫女学院に伝えられた。
「『裁縫教科書』の記述には,「シャツの縫い方」にミシンによる縫製方法の説明がある。ただし,手縫いに完全に代わるものではなく,飾りミシンとしての用途も含まれる。あくまで手縫いを主とし,一部にミシン裁縫を取り入れた裁縫教育である。(中略)同コレクションの民俗文化財調査票からは,明治 30(1897)年に製作された洋服雛形教材の一部に,ミシンによる縫製が確認できた。同コレクションの雛形の縫製方法は,手縫いとミシン縫いが混在していたことから,「東京裁縫女学校」では,手縫いによる裁縫指導からミシン裁縫に完全に移行した訳ではないことがわかる。」p.57
「シンガーミシン裁縫女学院でおこなわれた米国式の製図による洋裁教育は,シンガーミシン社が米国から持ち込んだ物ではなく,ストーン裁断学校で学んだ渡辺滋が「東京裁縫女学校」に持ち込み,そこで洋裁指導に使用した製図法を学んだ矢野によってシンガーミシン裁縫女学院が取り入れたという流れが浮かび上がった。」p.59
「シンガーミシン裁縫女学院のミシン裁縫教育の位置づけを川の流れと例えるならば,源流に渡辺辰五郎が考案した裁縫教育法がある。渡辺滋による米国のストーン式洋裁教育の流れがそこに加わり,渡辺式の裁縫教育を受けた秦利舞子が考案したミシンによる縫製を主とした洋裁教育とミシン刺繍の教育が合流し,さらに太い流れとなる。」p.61
■中村精二(2012)「渡邉辰五郎の先見性 : 渡邉辰五郎, 那珂通世, 福沢諭吉を通じて見た女子教育」東京家政大学博物館紀要 第17集、pp.39-54
※福沢諭吉の女子教育思想との類似性を評価。
■山田民子・寺田恭子・柏原智恵子・富澤亜里沙(2011)「明治時代の水着の復元を通してみた校祖・渡邉辰五郎の洋装教育」東京家政大学博物館紀要 第16集、pp.83-95
※実際の制作過程から渡辺辰五郎の先進性を評価。
■櫛田眞澄(2008)『男女平等教育阻害の要因―明治期女学校教育の考察』明石書店
※渡辺辰五郎の業績を「経済的自立」の観点から高く評価。
「彼は右記のような信念のもとに、女子一般のために、職業的訓練を行う私塾「和洋裁縫伝習所」を創設することになった。この学校の創設の目的は、裁縫の職業訓練であったため、職人養成と同様な厳しい技術指導がなされていた。したがって、この学校の出身者は、順次各地において、裁縫塾を経営し、あるいは小学校・女学校の裁縫教員として巣立ち、経済的に身を立てることになった。彼は職業訓練を表面だって論じなかったが、明らかに職業教育を実践していた、と言える。」221頁
「両校に共通して重要なことは、女子に対して裁縫技術による職業的訓練を与えて「経済的に自立」させること、すなわち女子に「自活」の道を得させることをめざして、学校を設立し、経営に当たった点である。(中略)技術の伝授と修得によって、女子を「経済的に自立」させるという両校の教育は、「良妻賢母」的家庭婦人の要請を目的とする「高等女学校令」に適応するものではなかった。それ故に、両校は明治・大正期を通して長期間にわたり、女学校という各種学校の格づけと、その扱いに甘んじていた。しかし職業上の資格を求めて入学を希望する者は年ごとに増加し、学校経営上の生徒募集には苦労がなかった。これは女子中等教育としての職業伝授を目的とした両校の設立と実践活動が、時代的に意義が大きかったことを意味している。」240頁
「国家による改革ではなく、庶民の側からの改革は、後の女子の職業的進出を先取りし、モデルを提示したところに意義があった、と考える。」245頁
「渡辺辰五郎自身が丁稚制度の基で裁縫技術を身につけた男性であり、職業訓練は、正確さと美しさが要求され、職人的技術の習得と熟練には、男女間に性別による区別はない。この二校の設立者たちは、女子が経済的に独立できないことを哀れに思った。そのため当時多くの女子が家族のために身につけていた裁縫技術を「手段」として利用し、技術の厳しい訓練を実施し、技術時代を高度化して、職業として金銭を稼ぎうる裁縫技術を身につけさせることにより、女子を経済的に自立させていた。これは、女性だから裁縫を、というジェンダー的特性論ではなく、あくまでも経済的独立の「手段」のためであり、両校の設立者の建学の精神には技術面における女子特性論は現れていない。」308頁
「両校に共通する点は、女子に対して裁縫技術による職業訓練を行い、経済的に自立させることであった。女子を「経済的に自立」させるという両校の目的は、良妻賢母を目的とする「高等女学校令」に反するものであったため、長期間にわたり各種学校の格づけのままであった。」312頁
「しかし明治期における和洋裁縫伝習所および共立女子職業学校の職業教育により、女性の能力は少しずつ開発され、無能者扱いにされていた女性の人権が、社会において次第に認められる契機となった。「人間的自立」の視点および「男女平等」の視点から見るとき、女性の「経済的自立」は、自立項目の中でも、特に重要な要素である。」319頁
■高野俊(2002)『明治初期女児小学の研究 : 近代日本における女子教育の源流』大月書店(376.2/Ta47 )
※極めて重要な先行研究。渡辺辰五郎の千葉県での実践を高く評価している。
「第五章で詳しくみる千葉県の渡辺辰五郎、あるいは宮城県で活躍した朴沢三代治、この二人の適任者を得たことは女児小学の具体化と発展にとって非常に大きなファクターであった。」20頁
「行政主導型の女児小学の特徴というのは、積極的に裁縫を導入したということである。その点では先にも触れたが宮城県に朴沢三代治、千葉県に渡辺辰五郎がいて、文明開化の時期にこのような二人の専門家がいたということが非常に重大な事実であった。これは歴史の偶然性というよりは歴史の必然性が、その時代が必要とする人間を生み出すという事例だったといえるのではないだろうか。」28頁
■新福祐子(1992)「家庭科教員養成に関する研究-渡辺辰五郎による裁縫教員養成-」大阪教育大学紀要 第II部門:社会科学・生活科学 第41巻 第1号、pp.11-32
※大正期「専門学校」の高度な教育内容を評価。
■二見剛史(1988)「女子教育に関する史的研究ー裁縫女学校を中心としてー」科研費。※「研究成果の一部は、教育史学会第32回大会(於和洋女子大学・63年10月)で口頭発表し、鹿児島女子大学の『研究紀要』に論文として収めた。なお、「女子教育関係文献資料目録ーー裁縫女学校の部ーー」を編集、印刷した。」
二見剛史(1989) 鹿児島女子大学研究紀要. 10. 155-177
■中川浩一(1986)「共立女子職業学校裁縫科主任中川とう–ある女教師の数奇な生涯」 茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学・芸術)35, 1-10
※明治17(1884)年入学生のライフヒストリー。自立した女性として成長した卒業生が新たに学校立ち上げに参加する様子などが具体的にわかる。
→中川九郎編(1927)『中川とう子刀自記念録』中川九郎
■高野俊(1983)「明治初期の女子教育と千葉県の裁縫教育」和洋女子大学『大學紀要』 第1分冊, 文系編 24 45_a-23_a
※学制期女子教育の発展過程(特に千葉県)の分析を背景に、渡辺辰五郎が開発した教授法の近代性を高く評価。
【問】明治9年千葉県『女児小学教則』の裁縫に関する規定はそうとう先進的だが、これに明治7年以来の渡辺辰五郎の実践がどれくらい反映しているか?
■岡通子(1981)「渡辺辰五郎の近代的裁縫教育」高橋春子編『女性の自立と家政学』法律文化社、70-90頁
※全体的にはマルクス主義的な社会科学の観点から、特に「女性労働」の社会科学的位置付けの理論に基づいて既存の家政学の方向性とイデオロギーを批判し、女性の社会進出について考察する。
[「近代市民社会の成果は、具体的には、近代的家族の生みだしたものだと、フーリエは考えていた。かれは、近代が「人格の解放をもたらす」というが、この「人格」の内容も家族にほかならないのであった。」(155頁)]
■高野俊(1978)「明治初年における渡辺辰五郎の裁縫教育」『私学研修』No.79
■樋口哲子(1970)「わが国における被服教育発展の様相(第1報)明治期の裁縫教授法(1)」日本家政学会編『家政学雑誌』編 21 (7), 40-47
※裁縫教育全体の流れを踏まえ、渡辺辰五郎の実践を特に「雛形」と「問答」の面から分析し、高く評価する。
「第 1 期 (30年 以前)教授書 の一般的傾向は、梅村たか著、岩間恵美他著上巻の一部を除いては、ほとんどが実際指導の具体的記述である。(中略)第2期(30年以後)の教授書の傾向は、理論的な面の研究が進み、教育の原理 、教育思潮と密着して、目的、意義、教育的価値、他教科との関連、教授方法(教授案、教式)教授細目、施設・設備、教便物などしだいに体系化されていった。」p.452
「当時、教授したことのたしかめに問答法を用いたことは文部省年報にも見 られるが、問答体で書かれたこの「普通裁縫教授書」が広く普及した背景には教育思潮の影響が考えられる。」p.456
「明治近代学校教育初期における裁縫教授法は、従来からの個別教授にすぎなかった。一斉教授の導入、庶物指教・開発主義を基本とする欧米教育思潮の導入・普及・学校制度の拡充などを背景 として、朴沢氏、渡辺氏は、他教科同様の一斉教授を可能とすべ く裁縫教授法の工夫案出に貢献し、分解教授、雛形教授、積もり裁ち(計算による)、教便物(掛図)、問答法による教授形態を案出した。これらの工夫は、両氏の多年の経験と研究によるもので、実際指導の面における工夫であり、教授法の理論的価値づけの段階 には至らなかった。一般人のもつ封建的女子教育観は根深く、学制当初の女子就学率は15%程度にすぎなかったが、裁縫教育を重視することによって徐々にその数を増していった。こうした中で両氏の教授法は、門下生によってしだいに伝えられ、第2期において検討され、さらに新しい教育思潮と密着した裁縫教授法へと発展する素地となった。そればかりでなく、今日の被服教育になお生きており、被服教育の基礎を確立したことにおいて偉大な貢献をしたといえる。 」p.457
■尾中明代(1971)『黎明期の洋装とミシンについて (第4報)―明治の女子教育と裁縫教育― 』東京家政大学研究紀要 11、1-9
※渡辺辰五郎と和洋裁縫所に対する考察の他、明治36年に制定された渡辺女学校の校歌に関する言及あり。
■平塚益徳/編著(1965)『人物を中心とした女子教育史』帝国地方行政学会
裁縫関連
■清重めい(2023)「明治・大正期の裁縫教育における教育的価値づけの変化 : ドイツ新教育の受容に着目して」東京大学大学院教育学研究科紀要 62 15-23
「女子教育の整備が進む明治30年代より以前には,裁縫の教育的意義が深く言及されてこなかった」17頁
「明治後期から大正期にかけては裁縫教育論で教育的価値がより意識されるようになり,裁縫は徳性の涵養に資するといった視点があらわれる」18頁
「今村の裁縫教育論において裁縫は,ただの技術修練ではなく子どもの心身の涵養にも資するものとして位置づけられ,広く受容されていた」18頁
「1905年版以降の今村は,裁縫教育を普通教育の中で捉える,すなわち児童生徒の人格陶冶が教育全体の目標としてあるとすれば裁縫教育がそれにどう資するかを考えていた。」18頁
「教育的教授とは,知識・技術の伝達にとどまらず「身体及び心意所作用の発達に留意し,品性を陶冶せんことを務むるもの」38)のことを指した。」18頁
「明治20年代以前と異なり,女子教育への関心の高まりも相まって,裁縫教育における教育的意義への言及が増えた。その中で,縫製の技術・知識だけでなく,裁縫を通した女子の人格形成全般が期待されるようになり,裁縫の教育的意義が拡張された」21頁
「裁縫教育史は従来,日本における教育史あるいは女性史の中でのみ語られてきたが,上述のような今村によるライへの言及をみると,裁縫教育は,新教育からの影響,特にドイツ新教育に位置する筋肉運動主義並びに労作教育からの影響を受けていたと指摘できる。」21頁
「ライは,手指を動かすという行為そのものを重視し,知識伝達だけの教養的修養ではなく,身体活動を伴う学習に価値を見出す考え方を促した。それを踏まえた小西の労作教育思想は,裁縫を通した女子の人格陶治を目指した裁縫教育実践家たちにとって,受容しやすい思想だった」22頁
■江端美和(2022)「ミシン技術の系統化調査」技術の体系化調査報告書31集
「産業革命により、家庭内での生産性を伴う女性の仕事であった糸紡ぎ、機織りの作業は生産効率の高い工場生産に変わり、衣服製作だけが家庭内に残り、縫製は家庭内における数少ない製品生産手段として貴重な作業となったのである。」pp.6-7
「衣・食・住は人間の文化と生活を担う最も基本的な三要素であるが、衣文化が家庭内に残ることにより家庭内文化における衣服製作の重要性が増し、ミシンがその大きな担い手として、女性の経済的基盤を創出し、労働負荷軽減により余暇を生み、女性の地位や権利の確立に大きな役割を果たしてきたことは、ミシンがいかに「産業革命の失敗作」と揶揄されようとも、ミシンに携わる人々にとって大きな誇りとなっている。」p.7
「軍服を中心とする制服、軍需縫製品は輸入に頼れず、このような生産現場では輸入ミシンが盛んに使われ、このミシンのメンテナンス部品の製造、修理・調整を行なう職業が成り立ち、これに対応した人・技術がミシンの国内生産の基礎となった。」p.10
「今井又三郎は 1877 年 8 月に上野公園の 3 万坪を会場にあてた「第 1 回内国勧業博覧会」に “縫製機械(ミシン)”を出品しており、彼が日本人最初のミシン製造者と考えられる。佐口鉄蔵は 1881 年 3 月開催の「第 2 回内国勧業博覧会」にミシンを出品し、有功賞状と賞牌を授けられている。」p.10
「それまでも和裁洋裁を問わず裁縫の重要性を認識し、1881 年頃
から渡辺辰五郎、鳩山春子、堀越千代らにより女子の為の学校が設立され、被服製作を家政学の一つに据える活動がされていたが、別行動とは言えこの様な活動にシンガー社の潤沢な資金が投入されたことで、被服製作が家政学の柱となり、被服製作の技術の習得が「良妻賢母」の必須条件となっていった。」p.10
「明治時代の日本は、一般社会でのミシン需要はほとんどなく、軍服、制服の生産工場のミシン需要は「工業用ミシン」の範疇にあり、ドイツからの輸入が大勢を占めた。」p.19
■額賀せつ子(2020)「茨城県の裁縫学校の始まりと女子中等教育に与えた影響 : 太田裁縫学校と小坂部裁縫女学校をとおして」おおみか教育研究
■アンドルー・ゴードン(2013)『ミシンと日本の近代―消費者の創出』みすず書房
■佐藤和賀子(2013)「朴澤三代治と裁縫教授用掛図」仙台大学紀要44 (2), 59-71
■三好信浩(2012)『日本女子産業教育史の研究』風間書房
■田中陽子(2011)「小学校裁縫科における裁縫と手芸の統合的扱い」『日本家庭科教育学会誌』54巻 2 号,pp.108-117
■田中陽子(2010)「『裁縫』から『被服製作』への展開過程における裁縫と手芸」『相愛大学研究論集』26巻,pp.125-139
■島立理子(2008)「石造物にみる裁縫師匠一幕末から明治の千葉県を事例として一 」千葉県立中央博物館研究報告 人文科学10 (2): 75-82
※幕末から明治初期にかけての裁縫師匠の具体的な様子が分かる。単に裁縫の技術だけでなく「婦徳」も扱っていたことが分かる。渡辺辰五郎への言及あり。
「裁縫教育の父と呼ばれる渡辺辰五郎も、裁縫師匠のひとりであった。」p.79
■島立理子(2004)「針供養の変容と裁縫を教える場の終焉―千葉県佐原の事例から―」『千葉県中央博物館研究報告―人文科学―』8-2、pp.25-42
■島立理子(2003)「『まち』の裁縫所―その特色と役割―」日本民具学会『民具研究』128号、pp.45-62
■島立理子(2001-2002)科研費「「裁縫所」からみる近代の女子教育」
「明治時代半ば以降に各地に設立された裁縫女学校では、裁縫を数学や国語と同じ一つの教科とするために、一斉教授法などの工夫が行われ、それが全国に広まっていった。また、裁縫教育は、良妻賢母主義の教育を担うという側面もあった。こういった教育を受けた裁縫所の師匠も数多くおり、町場の裁縫所ではこういった時代の影響を受けた教育が行わる事もあった。しかし、町場、農村部を問わず、その教育内容の多くやそのあり方は、人々の生活に根ざした裁縫や日々の生活に必要な知識を教授する場といった性格を有していた。」2001 実績報告書
「特に全国の裁縫所の師匠を多く排出した東京の渡辺裁縫女学校、仙台の朴沢学園関係の資料を収集するとともに、同校の生徒が学校の授業の際に製作した雛形について調査をおこなった。その結果、これまでの研究では「雛形の渡辺、部分縫いの朴沢」と言われていたものが、朴沢でもかなりの数の雛形を授業の中で製作していたことがわかった。」2002 実績報告書
■島立理子(2000)「『むら』の裁縫所」千葉県立暴走のむら『町と村調査研究』第3号
■島立理子(1999)「ひながたにみる明治末千葉県佐原の裁縫所」神奈川大学日本常民文化研究所『民具マンスリー』pp.7169-7180
■田中陽子(2005)博士論文『小学校裁縫科教育の歴史』
■田中陽子(2004)「小学校裁縫科における洋裁教育推進の背景:大正後半期から昭和戦前期を中心にして」『日本家庭科教育学会誌』47巻1号,pp.38-47
■田中陽子(2003)「大正後半期から昭和初期小学校裁縫科教材論」『日本家庭科教育学会誌』46巻3号,pp.207-215
■田中陽子(2003)「大正自由教育の小学校裁縫科教授法への影響と限界」『日本家庭科教育学会誌』46巻2号,pp.103-113
■三好信浩(2000)『日本の女性と産業教育 : 近代産業社会における女性の役割』東信堂
■田中陽子(1999)「明治・大正期の小学校裁縫科における洋裁技術の受容:和裁への適応」『日本家庭科教育学会誌』42巻3号,pp.17-23
■田中陽子(2000)「裁縫・大正期の小学校裁縫科教授法(第四報):手工科教授との関連」『日本家庭科教育学会誌』43巻3号,pp.193-198
■田中陽子(1999)『明治・大正期の小学校裁縫科教授法(第3報):大正期の裁ち方教授』『日本家庭科教育学会誌』43巻3号,pp.185-192
■田中陽子(1999)「明治・大正期の小学校裁縫科教授法(第二報):教授法重視の影響」『日本家庭科教育学会誌』42巻2号,pp.39-45
■田中陽子(1999)「裁縫・大正期の小学校裁縫科教授法(第一報):裁縫科教授定型過程と 実践上の問題」『日本家庭科教育学会誌』42巻 2 号,pp.31-38
■桑田直子(1998)「市民洋装普及過程における裁縫科の展開とディレンマ̶成田順の洋裁教育論を中心に̶」『教育学研究』65巻2号,pp.1-10.
■田中陽子(1997)「明治期の裁縫教授書類における教授媒体としての「図」」『北海道教育大学紀要第二部C家庭・養護・体育編』47巻2号,pp.309-315
■野田満智子(1997)「那珂通世による家事教育創設の取り組み』」日本家庭科教育学会誌 40 (3), 9-15
■野田満智子(1996)「井上毅による高等女学校規程「家事」の起草過程」日本家庭科教育学会誌 39 (2), 33-38
■田中陽子(1996)「明治期における小学校の和裁教育:教授書・教科書よりみた内容および方法」『日本家庭科教育学会誌』39巻3号,pp.1-6
■田中陽子(1996)「明治期における小学校「裁縫科」の教材配列」(『北海道教育大学紀要第二部C家庭・養護・体育編』47
巻1号,pp.1-6
■伊藤瑞香・永野順子(1994)「明治時代の中等教育における裁縫科の内容分析:高等女学校を中心として」『日本服飾学会誌』13号,pp.10-19
■伊藤瑞香・永野順子(1993)「明治時代の家庭科教育で取り扱われた裁縫科の学習内容 : 初等教育」和洋女子大学『和洋女子大学紀要. 家政系編』巻 33, p. 145-165
■伊藤瑞香・永野順子(1992)「家庭科教育における裁縫学習の変遷-教育政策の推移-」和洋女子大学『和洋女子大学紀要. 家政系編』巻 32, p. 163-175
■植村千枝(1992)「日本の学校教育における裁縫ミシンの導入 : 北海道地区の開拓にかかわって」日本家庭科教育学会『日本家庭科教育学会誌』35 巻 1 号 p. 59-65
※渡辺辰五郎と洋裁の関係について言及あり。
■中込省三(1982)『衣服産業のはじめ』国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-女子不就学対策と裁縫教育-」『家政学雑誌』32巻7号,pp.31-36)
■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江戸・明治両時代における裁縫教育を中心として-」(『家政学雑誌』32巻 1 号pp.11-24)
■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江
戸時代における女子教育と裁縫習得の実態-」(『家政学雑誌』32巻5号,pp.34-46)
■関口富左(1981)「女子教育における裁縫の教育史的研究-「府縣教則」よりみた裁縫教育の実状について(明治8~9年)-」『家政学雑誌』32巻5号,pp.47-51
■関口富左(1980)「女子教育における裁縫の教育史的研究-江戸・明治両時代における裁縫教育を中心として-江戸時代における市民生活と女子」『家政学雑誌』31巻10号,pp.46-55)
■尾中明代(1967)『黎明期の洋装とミシンについて (第3報)』東京家政大学研究紀要 7、55-64
■尾中明代(1966)『黎明期の洋装とミシンについて (第2報)』東京家政大学研究紀要 6、21-28
■尾中明代(1965)『黎明期の洋装とミシンについて (第1報)』東京家政大学研究紀要 5、41-50
※幕末維新期に洋装が一般化していった過程。
「文久2年の武家服制改革によって,調練には戎服と称する筒袖,細袴が次第に用いられるようになり,地質も木綿に代って羅紗,呉紹などの毛織物が用いられるようになった。これら戎服着用の武士が現われるにつれて,服を修理する仕事も多くなって,足袋職人や仕立物職人,袋物師らは戎服裁縫を兼業したり,専業の職人に転業する者もあった。従って幕府でも慶応年間にはいってから,横浜からミシンを仕入れることとなって,ミシン裁縫が次第に行われるようになるのである。 」p.44
「また慶応3年にオランダから帰朝した榎本武揚は,軍艦乗組員用の戎服を作るために,横浜から羅紗や,ミシンなどを大量に購入している。このようにミシンの必要が高まるとともにミシンが輸入されはじめ,その広告などもみられるようになった。」p.44
千葉女子師範学校関連
■(1981)『千葉大学教育学部百年史』
■(1983)『千葉県教育百年史』第一巻
教育史一般(女子教育・産業教育)
■小山静子(2023)『高等女学校と女性の近代』勁草書房
■三好信浩『教育観の転換―よき仕事人を育てる―』風間書房、2023年
※渡辺裁縫学校には触れていない。女子の産業教育に関して各種学校の果たした役割が大きいことに言及する。
「産業分野に限らず、日本の女子教育全般に果たした各種学校の役割は大きい。」p.62
■三好信浩『日本の産業教育―歴史からの展望』名古屋大学出版会、2016年
※渡辺裁縫学校に関する記述はないが、共立女子職業学校を大きく取り上げて、女子職業教育の展開に関しては若干ネガティブな評価を下している。
「これまでの日本の近代女子教育史の研究物は、高等女学校の教育を中心にしてきたうらみがある。しかし、産業教育の指導者たち、例えば工業教育の手島精一、農業教育の横井時敬、商業教育の渋沢栄一らは、高等女学校に不満を抱き、よりいっそう産業社会に密着した教育を求めてきた。」p.287
「日本の職業学校がこのように産業から遠ざかった理由は多々あるであろうが、その一つとして共立女子職業学校の先例がモデルにされたことも考えられる。同校は、一八八六(明治一九)年という早い時期に宮川保全を中心とする有志によって各種学校として設置された。岩本善治の『女学雑誌』のごときはその企図を美挙として逐一紹介記事を載せた。」pp.271-272
「日本の女子職業学校の先進校である共立女子職業学校が裁縫と並んで技芸を重視したこと、中等学校の裁縫科または裁縫手芸家の教員養成をしたことは、戦前期の女子の「職業」の範囲を区画したものと言えよう。」p.272
■稲垣恭子(2007)『女学校と女学生』中央公論社
■新福祐子(2000)『女子師範学校の全容』家政教育社
■深谷昌志(1981<1966)『増補良妻賢母主義の教育』黎明書房
※学制期における女子教育について、「文部省日誌」「文部省年報」記載の各県教則を分析したうえで、A型「男女同一教則」B形「男女とも教則は同じであるが、女子には家庭科が付加される。」C型「原則として、男女同一教則であるが、一定の時間、女子には家庭科を与え、それに相当する時間、男子に別の教科を教える。」D型「同一教則の形をとっているが、家庭科以外の内容も性によって異なる。」E型「男女別教則」の5類型に分類し、明治8年当初はA型が多かったものの、明治12年にはA型が減少し、E型が増加していることを明らかにした(48頁)。その上で、民間では裁縫や手芸のニーズがあったものの、現実的には地方に行くほど具体的な設置が進まず、表面的な現象として男女同学となっていたと分析している。逆に東京や大阪など都市部では男女別学になっている。(48-54頁)
「このような傾向を総合すると、各府県では学生初期より性によって教材をちがえ、特に裁縫、手芸を女子に課する必要を認めていた。しかし、女教員不足や施設の不備のために、結果として、男女共通教育の現象が現れたと考えられる。そして、財政的な基盤が弱く、しかも、多くの課題をかかえた各県では、他の事業をさしおいて、裁縫室を作るほど女子教育に強い関心を抱いていなかった。」(54頁)
「女子中等教育については法的な規制がないだけに、一定のモデルに従って女学校作りをする必要はなかった。したがって、地域によっては、明治以前から自生的(Voluntary)に発達していた裁縫塾を、積極的に公教育にとり入れる試みがなされていた。その代表例が京都府で、先にふれた京都女学校のほかに、明治六年二月の柳池女紅場、三月の初音女紅場以下、明治八年には市内だけで一九の女紅場が設置された。」(74頁)
初等教育では、明治14年の小学校教則綱領の施行に伴って、「全体としては、文部省の教則に準拠して、教則中の作文、習字、図画から各一時間をさいて裁縫にあてる方法がとられている。そして、学制初期のような県による相違を認めることはできなくなった。」(85頁)
小学高等科では、「教則の上では、中等科以上の小学課程に女子用教材が加えられることになった。しかし、のちにくわしくふれるように、裁縫科、家庭経済の設置は、教員、施設の不足から、名目だけで実施されることはなかった。」(85頁)
「西村茂樹は、学習院女子科での経験から、裁縫一つをとりあげても、上層は仕立てを他人に頼むのだから必要なく、下層は立派な着物を作らないので不必要だ。裁縫が必要なのは、ひととおりの着物が必要だが、それを自分で縫わなねばならない中層ではないかと、階層に対応した教育の必要性をといている。」(明治31年、164頁)
「日清戦争、条約改正、産業革命を契機として、女子に対する国民教育の必要が生じた。そして伝統的な儒教志向型の女子教育思想は、家庭内での規範を国家的規模に拡大し、性差を本性の相違にすりかえて、上下関係をあいまいにし、体制イデオロギーとしての正当性を獲得するに至る。しかも、性差の協調は、ナショナリズムと無縁の民衆にも受けとめやすい、歓迎すべき傾向であった。また為政者側も、女子労働者の増加に対するアンチテーゼとして、また、底辺の女子をもリードしうる女性の鑑を設定し、国策を底辺に伝達する中間溝として、中間層の女子に、純度の高い女子向けの教育――良妻賢母主義教育――が強調されるに至る。」(165頁)
[明治30年代]「この頃、各地方の主要都市には裁縫塾と家塾を統合した形の女学校が発生しており、その底辺に無数の無名の裁縫塾が存在していた。新設高女は、これら各種学校と一線を画した女学のリーダーでなければならない。各種学校では民衆の教育要求を受けとめて裁縫を中心とした主婦学を、やや組織化された学校では主婦学に女礼を加えて儒教的な権威づけを行なっているだけに、高等女学校はナショナリズムとのゆ着に独自性を求めざるをえず、これが校長の積極的な態度をもたらしたと考えられる。」
[明治29年訓令十二号]「この時期となると、家塾を発展させて、女学校形式をとるものが登場する。」(ex.三輪田女学校、成女学校、跡見女学校。194頁)
「このように、女学塾から高等女学校へ変質する学校がある一方で、裁縫塾から女学校へ体質改善を図る学校もあった。たとえば、和洋裁、礼法、点茶、生花、造花、刺しゅうの六科を教科として、本郷に設立された和洋裁縫伝習所は、明治二十九年、東京裁縫女学校と改称、上記の科目のほかに、修身、教育、家事、習字の四科を加え、普通教育学校への一歩を踏みだしている。」(史料は渡辺学園『創立五〇年史』、195頁)
「このように、私立女学校の有力校は高等女学校令に積極的に準拠して、私立学校の中での最上位の地位を確保、大規模な裁縫塾は私立女学校に体質を変え、私立女学校の間にも、上は高等女学校から下は裁縫塾までの段階づけが行なわれはじめた。」(196頁)
「このような動き[※高等女学校長会議]と並行して、明治三十四年から、私立女学校に対する視学の巡視が開始され、強力な行政指導が行なわれた。たとえば、明治三十四年十二月、日本女学校、渡辺裁縫女学校に、
「建築物建直し、又は教室を増築するまで、生徒を収容する事を禁ずる」(135)
旨の指令が発せられた。」(史料135は「教育時論」明治35年3月5日48頁「私立学校取締」、198頁)
■小河織衣(1995)『女子教育事始』丸善ブックス
※裁縫教育・実業教育や渡辺辰五郎への言及はなし。
■小山静子(1991)『良妻賢母という規範』勁草書房
■片山清一(1984)『近代日本の女子教育』建帛社
■東京都(1961)『東京の女子教育』東京都公文書館
■常見育男(1959)『家庭科教育史』光生館
■常見育男(1938)『日本家事教育発達史』創元社
論点
明治維新時の動向
辰五郎1868年1月に長南町に帰郷。このとき京都で戊辰戦争勃発。
辰五郎1868年4月に裁縫塾開始。このとき江戸は無血開城。
1868年7月~12月にかけて長南宿の浄徳寺が知県事務所。上総安房知県事=柴山文平(久留米藩士)。
洋服について
「辰五郎がいつ、どこで洋服の仕立てを学び、服装文化に関わる着装の約束事から生地、デザイン、裁断、縫製とも和服とは全く異なる洋服の知識や仕立方を身に付けたのかは今のところ明らかではない。」『女子教育の先駆者 渡辺辰五郎と今日の教育』p.5
開発教授との関係
常見育男(1940)と樋口哲子(1970)が、渡辺辰五郎『普通裁縫教授書』における問答法の意義について触れている。はたして問答法は辰五郎の独自創案によるものか、あるいは何かしらからの影響を受けたものか。神辺靖光(2019)は「掛図」や算術を用いた教科書の画期性については言及するものの、問答法には触れない。
たとえば明治10年には内国勧業博覧会が開催される他、各地で博覧会が開催されているが、何かしらの影響はあるか? たとえばなにかしらの「掛図」そのものは、明治10年8月に上野に開館した教育博物館で展示されているはず。
人格教育との関連
清重めい(2023)は、辰五郎の教え子がより直接的に裁縫教育を人格形成に寄与するものと考えていたことについて言及している。
一方、櫛田眞澄(2008)は、辰五郎の意図はあくまでも職業教育に専念したものであり、それゆえに主に経済的な観点から女性の自立に結びつくものだったと高く評価している。