東海オンエアの困難について思ったこと

話の前提

 問題を解決しようとして書いているわけではありません。というか、私がここで何かを言ったところで、問題解決に対しては一ミリも寄与しません。それでもなぜ書くかというと、ある個別の事象が普遍的で大切な何かに触れていることがあり、このケースはそういう普遍的で大切な何かを考えるきっかけになると思ったのと、タイミング的に私個人が抱えていた問題に響きあってしまったからです。
 またもちろん、ある特定の誰かを悪者にしたいという意図もありません。個人的な嗜好としての好き嫌いはもちろんありますので物事の見方にバイアスがかかるのは仕方ありませんが、誰か特定の一人を断罪しても何の意味もないし、問題を解決することに寄与しません。主観的なバイアスは排除できないとしても、その偏りをなるべく意識しつつ、公平かつ客観的・普遍的な記述を心がけます。

個人的な立場

 東海オンエアの一視聴者で、メンバーの中ではりょうくんが好きですが、一番好きなのはサチオさんです。おそらく同い年というのが大きいでしょう。誕生日は私と一か月も違いません。サチオさんのほうがちょっとだけお兄さんです。
 私は高校の3年間を岡崎に通っていました。朝6:00に起きて電車に揺られて1時間弱かけて刈谷から岡崎に通っていました。通っていた高校は東海オンエアの面々とは違うところですが、中学の同級生は何人も岡崎城西に通っていました。名鉄本線の進行方向左に岡崎城の天守閣が見え始めたら読んでいた本をしまって電車を降りる準備をしたものです。
 東海オンエアの存在を知ったのは、実家に帰って岡崎城に寄った時です。大手門に等身大の人物パネルが置いてあって、見たことない人だなあ?と思って近寄り、youtuberが観光大使として活躍しているのを知ったのが最初です。
 その後、卒業研究で指導を担当した学生が、東京出身なのにやたらと岡崎の事情に詳しいなあと思ったら、実は東海オンエアのファンだった、なんということもあって、より詳しく知ることになり、私も実際にyoutubeを観るようになりました。一番好きな動画は回転するやつです。てつやが回転しまくった遊具がある刈谷亀城公園は、私が小学生の時にセミをとりに遊びに行っていた馴染みの場所です。今年の指導生にも東海オンエアを観るのが日課だという学生がいます。また担当している「教育課程論」という授業では学生諸君に学校を作らせるプロジェクトを課しているのですが、岡崎に「東海オンエア学園」を作ってしばゆーを校長にした学生もいます。彼女たちはおそらく今回の事案に動揺しているでしょうから、来週の授業とゼミで私なりにケアをしようと思います。

サークルクラッシャーとホモソーシャル

 まず一連の事案の推移を見聞きして思い浮かべたキーワードは「サークルクラッシャー」という言葉です。今から20年ほど前に人口に膾炙した言葉で、最近の若い人は知らないかもしれません。オタク的同好会・サークルに外部から接触した女性が、悪意のない奔放(性的含む)な言動を繰り返すことで、サークル内部のメンバーの敵意と憎悪を生んだり増幅したりして、結果的に同好会・サークルが崩壊(クラッシュ)するという古今東西普遍的に見られる現象を指して、そのきっかけとなった女性を「サークルクラッシャー」と呼ぶようになりました。近年で一番有名な例は、ビートルズ解散のきっかけを作ったと名指しされるオノ・ヨーコでしょう。(彼女が本当にサークルクラッシャーだったかどうかについては、丁寧な検証が必要です)。今回の事案は、まさにビートルズ解散の経緯を彷彿とさせるような展開となっているように見えたため、個人的に「サークルクラッシャー」というキーワードを最初に想起したのでした。

 しかしそれは単に女性が悪いと決めつけて終わっていい話ではありません。そんな単純な話にしてはいけません。実は崩壊させられる側のサークルにも極めて大きな特徴があることが、この言葉が生み出された時点から気が付かれています。具体的には、当時から「オタク」とか「童貞」という言葉を以って語られています。たとえば反対に、インカレ系テニスサークルにはサークルクラッシュが発生しません。クラッシュするサークルとして、SF研究会とか文芸同好会のような文科系(というかオタク系)が目立ちました。
 クラッシュするサークルに共通した特徴があるということは、一方的に女性の方に非があるのではない、ということを示唆します。もし一方的に女性の方に非があるとすれば、インカレ系テニスサークルでも同様の現象が観測できるはずですが、そうはなっていません。つまり、女性とサークル全体との関係性やコミュニケーションの在り様からサークルクラッシュという現象が観測されるということであって、一方的に女性に非があるとして片づけて済む事象ではありません。

 そしてサークルクラッシャーという言葉が生み出された時点では、クラッシュさせられるサークルの特徴を「オタク」とか「童貞」というふわっとした曖昧な概念で表現していましたが、個人的にはもっと厳密に「ホモソーシャル」と規定する方が現象を深く捉えられると考えていますし、社会学系の素養がある人たちは10年くらい前にはそういう話を始めています。
 「ホモソーシャル」とは、世間一般で言われているホモ・セクシュアルの「ホモ」とは少々異なるニュアンスで、女性を排除した男性のみの社会(socialあるいはcommunity)を指す概念です。あらかじめ女性(および女性の感性や考え方)を排除して形成された集団を指しますが、女性を排除しようとする意図の有無は問いません。20年前にサークルクラッシュが観測された際に「オタク」とか「童貞」という言葉で表現されたのは、おそらく意図せずにホモソーシャルとして形成された集団に貼られたレッテルです。現象の本質は「オタク」や「童貞」というレッテルにではなく、ホモソーシャルという集団内部の関係性にあります。(この文章でこのあと「ホモソーシャル」という言葉が出てきたら「同質性の強い(集団)」と読んでいただければ文脈が通じます。)

ホモソーシャルな集団と「ニワカの排除」

 ホモソーシャルな集団を凝集させる力は「同質性」です。「同じ」であることが極めて大きな凝集力を発生させます。文科系サークルであれば、趣味が「同じ」であるということが集団を形成し、凝集させます。そしてより重要なのは、表面的な趣味が同じだけでなく、背景や土台となる経験や思想や価値観が相当の程度で「同じ」であることが、集団内部でのストレスのない低コストのコミュニケーションを可能にします。だから逆に言えば、ホモソーシャルな集団は、いわゆる「ニワカ」を排除しやすい傾向にあります。ニワカとは、背景や土台となる経験や価値観を集団と共有しないがゆえに、コミュニケーションに断絶やストレスやフラストレーションを生じさせる厄介者です。
 SFやアニメやミリタリーなど、世間的に「オタク」と見なされる分野でニワカを排除する傾向が強く見えるのは、意図するかしないかに関わらず、その集団が「同質性」の高いホモソーシャルとして形成されているということです。だとすれば逆に、ホモソーシャルとして形成された集団であれば、オタクかどうかに関わらず同様にニワカを排除する傾向を見せます。
 たとえば一番わかりやすいのは、政治や経済トップの世界で女性が排除されているという現象です。仮に一部の女性が活躍しているように見えても、それは「異質」な経歴や価値観が評価されているというよりは、ホモソーシャルな集団の思考様式に馴致され、コミュニケーションにかかるコストが低くなって受け入れられているだけに過ぎません。

ホモソーシャルな集団と「恋愛」

 このように通常ではホモソーシャルな紐帯の方が圧倒的に強く、ニワカのほうが排除される傾向にあるにも関わらず、しかしある特定の一つのイシューに限ってはホモソーシャルな紐帯のほうが木っ端微塵にクラッシュします。その特定の一つのイシューが「恋愛」です。(異性愛を前提にしません。もちろん同性愛も含みます)。特に肉体的な関係を含む場合、クラッシュ効果は甚大です。恋愛(特に肉体関係を含む場合)は、ホモソーシャルの文脈や価値観から見ればもちろん異物に過ぎないので、基本的にはニワカと同じように排除しようと試みます。排除に成功するケースもあります。しかしこの異物の排除に失敗したとき、ホモソーシャルの紐帯の方が動揺し、いわゆるサークルクラッシュが発生します。ちなみにインカレ系テニスサークルの場合は、恋愛が最初からコミュニティ形成の重要な要素になっており、異物ではないため、サークルクラッシュが観測されません。(ただし個人間闘争は頻繁に発生しているはずです。)

「恋愛」の一対一関係

 どうして恋愛のみがホモソーシャルな紐帯を破壊できるかというと、恋愛の基本原理が「一対一」の関係にあるからです。(異性愛・同性愛を問いません。)
 ちなみに恋愛に限らず、「一対一」の関係性が前面に出るところでは、ホモソーシャルのニワカ排除は発生しません。SNS等でニワカに厳しい言葉を発しているオタクも、一対一で特定のニワカと対峙した場合、同じような排除行動には出ません。むしろ歓迎する姿勢を示すことが多いでしょう。なぜなら、一対一の関係性が前面に出る場面では、ホモソーシャルの文化や価値観はコミュニケーションの前提にならないからです。そこでは「人格」と「人格」の対峙が生じているだけです。オタクがニワカに強く出られるのは背景にホモソーシャルの文化や価値観を背負っている場合だけであって、その威光は一対一の関係では消失します。
 この「一対一」の関係でおそらくもっとも強力なものが、「結婚」や「家族」という概念にも結合する傾向を持つ「恋愛」という事象です。恋愛とは、大半の「一対一関係」のようにその場限りで解消される一時的なコミュニケーションではなく、持続性を持って(最長では死んだ後まで)その人の人格を締め付けるかけがえのない事象だからでしょう。このかけがえのない「一対一」の関係がホモソーシャルな集団に持ち込まれたとき、容易に集団の紐帯は破壊されます。
 このような経緯でホモソーシャルな集団がクラッシュする現象は、現代日本で観測されるだけでなく、古今東西で普遍的に観測される現象です。歴史的にいちばん有名な例はクレオパトラでしょうし、オノ・ヨーコについてもそう理解する人がいます。

ホモソーシャルと「いじめ」

 また、ホモソーシャルな集団では、外部からは「いじめ」に見えるような現象が発生しやすい傾向にあります。これが仮にホモソーシャルな集団ではなく、多様性に満ちた集団であれば、そこで発生するのは「いじめ」ではなく「闘争」や「虐待」や「差別」です。「闘争」や「虐待」や「差別」という言葉ではなく「いじめ」という言葉が使われるのは、その事件の舞台が多様性のないホモソーシャルのケースに限られます。「一対一」の関係では明らかに「闘争」や「虐待」や「差別」としか言えないような事件も、ホモソーシャルの文脈に回収されると「いじめ」という言葉の範囲で処理されます。
 しかしさらに問題をややこしくしているのは、ホモソーシャルな集団の外部からは「いじめ」に見える事案も、集団内部では「いじめ」と認識されないケースが極めて多いことです。多様性のある集団であれば明らかに「闘争」や「虐待」や「差別」として認識される事件も、ホモソーシャルな集団内部では特定の文脈と文化・価値観に裏打ちされた「ノリ」として理解されます。この「ノリ」を支えるのは「空気」という日本特有の概念ですが、これを厳密に言うと「ホモソーシャルを支える土台や背景となっている文脈や文化・価値観の総称」を意味します。この「空気」を吸っていると、外部からはいじめとしか理解できない事件も「ノリ」として処理することが可能になります。(だから本質的に「いじめ」を解決しようと思ったら、まずホモソーシャルの文脈や文化をいったん引きはがして、徹底的に「一対一」の関係に還元し、「人格」という概念を浮上させ、「尊厳」を回復する手続きをとる必要があります。)

ホモソーシャルと「男子校のノリ」

 ここまでホモソーシャルの特徴に関する一般的・抽象的な話をしてきました。ちなみにホモソーシャルそのものが悪いということはありませんし、そういうことを言いたいわけでもありません。あくまでもホモソーシャルの性質や特徴について解釈した上で、それが壊れる経緯について考えてきたに過ぎません。それが良いか悪いかという判断は一切していません。
 そして話の焦点は、まさに東海オンエアが典型的なホモソーシャルに見える、というところです。一般的にはそれは「男子高校生のノリ」として理解され表現されているところでしょう。(ちなみにかつて男子校だった岡崎城西は現在では共学です)。その「ノリ」という一般的な理解こそ、東海オンエアが典型的なホモソーシャルであることを示唆しています。繰り返しますが、ホモソーシャルであること自体は、悪いことではありません。ただ集団の性質を説明する言葉に過ぎません。むしろ東海オンエアの人気を支えてきた要因は、そのホモソーシャルな性質(要するに男子校のノリ)にあるでしょう。
 ちなみに東海オンエアの動画には女性がたくさん登場します。女性ファンも(私の指導生も含めて)たくさんいます。しかしそれは東海オンエアという集団の特徴がホモソーシャルであるという解釈を妨げません。というのは、男子校のノリの中で女性を扱っているにすぎず、女性(あるいは女性とのコミュニケーション)に付随する「男子校のノリでは処理できない異質性」に正面から向き合っているわけではないからです。それは女性とは一般的な関係を築くだけで、絶対に「一対一の関係にならない」という鉄則でもあります。それが男子校のノリです。(ただし、お母さん関連企画だけは、女性という異質性に正面から向き合っているように見えて、かなりホッコリします。お母さんは男子校のノリを超える。東海オンエアに批判的な人たちには、お母さん企画動画だけでも見てほしい)。
 逆に、東海オンエア(特に本チャンネル)の魅力の根源は、メンバー個々の個性もありますが、それ以上にメンバー間の関係性やコミュニケーションの方が重要だということです。「空気」と言ってもいいでしょう。それは私が得意げに披露するまでもなく、彼ら自身が「六人そろってこその東海オンエア」とことあるごとに表明している通りです。彼らは彼ら自身の魅力の根源をよく自覚しています。また私が改めて言うまでもなく、ファンはみんなそのことを知っています。その集団の魅力があった上で、さらに個々のメンバーにファンがついていくのは、とても健全な運営です。でした。
 しかしその「空気」を支えていたのは男子校のノリであり、社会学用語ではホモソーシャルという概念で表現されるものでした。それは「一対一」の関係が持ち込まれたときに容易に壊れるのです。古くはクレオパトラ、近年ではビートルズに見られるとおりです。

ホモソーシャルからの離脱

 学生であれば許されていたノリが、社会人になると許されなくなる。ホモソーシャル(男子女子問わず)では通用していた考え方が、多様性のある社会一般では通用しない。それは東海オンエアに限らず、大半の人が大人になる過程で経験することです。東海オンエアの場合も、個人的には、過去の危なっかしい動画は次第に少なくなり、いわゆる「大人」になってきたなあという印象が強くなっています。一般的に「大人になる」ためのきっかけには様々ありますが、内輪のノリが通用しないという異文化体験はかなり重要でしょう。
 そして決定的に重要な転換点は、「一対一」の関係を優先すべき時期が訪れた時です。それは、具体的には「結婚」という形で訪れます。家族を持った時、その「一対一」の関係の構築や維持には、もはやホモソーシャルな集団が積み上げてきた文脈や文化・価値観は通用しません。その「一対一」の関係は地球上でただ一つのかけがえのない関係であり、前例もマニュアルもありません。人格と人格の結びあいを真剣に続け、時間とエネルギーを割くしかありません。そのメンテナンスに時間と労力を割くことは、ホモソーシャル内部で低コストのコミュニケーションを満喫してきた人にとっては、とても苦しいことです。しかし家族とは、そういう「コストのかかる異文化同士の理解」に対する労力を惜しまないところに成立します。そのコストに耐えられなくなったとき、家族は崩壊します。家族を維持したかったら、ホモソーシャルの居心地よさから抜け出して、「独立した人格」として一対一の関係性を構築し続けなければなりません。しばしば「友達のような夫婦」という言葉をみかけますが、それは見せかけは家族という形をとっていたとしても、実態はコミュニケーションにコストがかからないホモソーシャルな集団だということでしょう。しかしそういう疑似的なホモソーシャルな集団こそ、お互いの文化・価値観の相違が露呈したとき、改めて高いコストを支払うことに躊躇してしまう恐れがあります。「友達のような」とは言わず、最初から高いコストがかかると覚悟しておいた方がよいのでしょう。(しかし、だから結婚したがらない若者が増える。)

仕事と家庭(プライベート)の分離

 こういう人類の長年の知恵を踏まえて、人々は仕事と家庭(プライベート)をきっちり分離するという取り組みを行ってきています。家庭の事情は仕事に持ち込まないし、仕事の関係は家庭内に持ち込まない。それが一方でホモソーシャルを維持しつつ、一方で一対一の家族関係を安定して構築するための、人類が編み出した知恵です。仕事も家庭も両方とも成立させるための知恵です。
 今回の事案では、この人類長年の知恵が全方位的に崩壊していました。家庭の事情を仕事に持ち込む、仕事の関係を家庭内に持ち込む、というか家庭の事情そのものが仕事(youtube)としてカネに換わる。悪意なくカジュアルに仕事の情報が漏洩されてしまう。まったく仕事と家庭の区別がついていません。こんな状況が続けば、「遅かれ早かれ」(といろいろな人が言っていますが)、同じような事態に陥ったでしょう。
 だから集団のリーダーとしては「家庭の都合を仕事に持ち込むな」としか言いようがないことは分かります。特に他のメンバーがその原則を守れているのに、ある特定の人物だけが守れないとなれば、強権を発動してでも解決したくなる気持ちは分かります。(しかしそのあたりについては、東海オンエアのノリ自体に危なっかしい要素がたくさんありました。そういう意味では脇が甘かったのは確かでしょう。そしてyoutuberという職そのものが家庭生活の切り売りで成り立っているという事情はもっともっと相当に深刻で、真剣に考えるべき課題なのでしょうが、ここでは踏み込みません。)
 一方で「一対一の関係を維持するコスト」を保障できているかどうかという問題について、私の見るところ、おそらくリーダーは自覚的でした。たとえば10周年記念イベントの企画紹介の動画では、今後の動画作成に対する構想と方針を示していました。動画作成にかける時間とコストを削減し、各メンバーのプライベートの時間を確保したいという意志を表明していました。動画で表明された方針を見る限り、リーダーは各メンバーからのSOS発信(あるいは自分自身の環境変化)を踏まえて、「働き方改革」を進めようという意志を示していたように思います。しかし、間に合わなかった。リーダーとしては問題の所在をそうとう明確につかんでいたはずで、今回の事案の推移には忸怩たるものが相当あるだろうと推測します。
 この問題は、東海オンエアという集団に限ったことではありません。いわゆる「働き方改革」が間に合わないことで、たくさんの家庭が今も世界中で崩壊していることでしょう。私の専門領域で見聞きする教員の家族も、ホモソーシャルな教員集団からの圧力で大変なことになっています。しかしホモソーシャルな集団の方では「その空気が当然」だったりするので、平気で家庭のほうを犠牲にすることを要求しますし、そう要求していること自体にも無自覚です。だから、もう日本全体で強制的に「働き方改革」を進めて、家族と仕事の分離を明確にしていくしかありません。
 そして個々人は、家族関係の維持のために高いコストをかけられる時間が確保されることを前提に、ホモソーシャルな集団内で低コストなコミュニケーションに慣れている現状(つまり子ども)を抜け出して、異質な要素を含む集団を高いコストを払ってでも維持する覚悟を決めて、それを実現する知恵と技術を身につけていくしかありません。それが大人になるということなのでしょう。

離婚という言葉

 ここまで抽象的・一般的な話を続けてきて、急に個人的な話で恐縮ですが。私は今年の4月に離婚しました。ある一つの家族が崩壊した(させた)、その当事者だったりします。新型コロナウイルスの影響や医療の関係など単純ではない要因は多々ありますが、どれもこれも所詮は言い訳で、私が「関係を維持するためのコストを十分にかけなかった・かけられなかった」のが原因ということでファイナルアンサーです。反省だけはしていますが、後の祭りです。かけがえのない一対一の関係は、もう取り戻せません。
 そんなこともあって、「離婚」という言葉を目にしたり耳にしたりすると、半年経った今でも胸が締め付けられる思いがします。今書いていても、なんだろう、涙が出てきました。この言葉は、そう軽々しく使ってほしくないんです。
 また一方で、私はあるホモソーシャルな集団で長い間(30年くらい)低コストのコミュニケーションを楽しんできましたが、離婚をきっかけにそのコミュニティからも距離をとるようになりました。心から楽しめる感覚を失いました。しかし半年経って、ようやく自分の置かれた状況と課題が客観視できてきたような気がするので、許してもらえるのなら、新たな気持ちでコミュニティに戻りたいと思うようになっています。それは低コストでストレスのないコミュニケーションに浸りたいという願望でもありますが、おそらくもう一つは「一対一」の関係を前向きに構築するエネルギーを得るための重要な場所だと気がついた、ということでもあります。吉本隆明も言うように、対幻想と共同幻想は対立するものではなく、相補的なものです。しばゆーも、仲間たちの輪に戻ってほしい。

みんなで幸せになろう

 つい先週まで楽しく東海オンエアの動画を見ていたのに(離婚したから一人でメシつくって一人で食べながらですが)、その平穏な日常が失われるという事態に、愕然とします。が、平穏で楽しい日常の背後で、東海オンエアのメンバーたちが環境を維持するためにそうとうのコストをかけていたことが、今回の事案で露呈しました。楽しく動画を見ていただけの一視聴者としては、とにかくゆっくり時間をかけてでも、関係者一同が幸せになる道を見つけてほしいと願うだけです。関係者一同が出した結論が、仮に一視聴者にとって都合が悪いことであっても、私の経験から言えることは、ホモソーシャルな内輪ノリを乗り越えて、「一対一」の関係でみんなが幸せになれる環境を確保できるのがきっと一番よいだろう、ということくらいです。関係性の変わった彼らを観るのも、たぶんきっと楽しいでしょう。個々の内情は知りませんし、知っても意味がありませんし、私個人は何の役にも立ちませんが、応援しています。みんなで幸せになろうよ。