【要約と感想】沓掛良彦『エラスムス―人文主義の王者』

【要約】エラスムスは16世紀北方ルネサンスを代表する知識人ですが、ラテン語が死語となったのに伴って忘れられ、現代日本ではルターとの比較で語られるくらいで、文学的業績についてはほとんど知られない人物となりました。様々な貌を持つエラスムスのうち、特に人文主義者としての活動に焦点を当て、著作、往復書簡を材料にして、人となりや業績について紹介します。詩はヘボだし、キリスト教に関わる著作は退屈ですが、流暢なラテン語とギリシア語を駆使して風刺的文学の傑作を遺したり、ギリシア原典から聖書を校訂したのは歴史に残る圧倒的な仕事で、書簡文学者としてもユニークです。エラスムスは、世界市民的な平和主義者として、そして普遍人文学的な知性として、現代でも読み継いでいく価値が大いにあります。

【感想】「ルネサンス」に対する理解を深めようと手に取った本で、期待に違わず勉強になった。東西の古典に通じた著者の語り口が、重厚な語彙を駆使している割に軽妙で、心地よかった。日本語が巧い。
 ただ、キリスト教に関わる諸々を「退屈だ」としてスッパリ切り落とし、人文主義的な側面に限って話を進めたことについては、意図そのものは分からなくもないけれど、個人的にはかなり食い足りないものを感じてしまう。というのは、個人的に興味関心のある「ルネサンス」とか「人文主義」というものを本質的に理解しようとする時、どうしてもキリスト教との絡みが外せなくなるのだ。そこを削られると、痒いところに手が届かない。

【今後の研究のための備忘録】ルネサンス
 ということで問題はルネサンスというものの理解だ。16世紀に活躍したエラスムスはトマス・モアと並んで「北方ルネサンスの二大巨頭」と呼ばれる。ギリシア古典に精通していたという意味においては確かに「人文主義」ではある。

「エラスムスの在世中だけでも六〇版、一六世紀中に実に一三二版という、当時としては破格の大ベストセラーとなったこの書物[『格言集』]は、ギリシア・ローマ世界全体の俯瞰図として、古典の知識の普及という面において、ヨーロッパ全体に絶大な影響を及ぼし、古代ルネッサンスをつなぐ重要な役割を果たした。極言すれば、この書物は、古代近代をつなぐ役割を果たしたということになる。」130頁

 しかしエラスムスは、果たして現代の我々が言う「人文主義」的な関心からギリシア古典に触れたのだろうか? 私が見るところ、エラスムスはキリスト教のありかたには徹頭徹尾こだわっている一方で、「神から人間を解放」しようなどとは一切していない。その姿勢は私が理解する「人間中心の人文主義」ではなく、中世キリスト教の勢力圏ド真ん中にある。
  確かに「頑迷固陋」なスコラ神学から異端宣告されるなど、エラスムスの考え方はカトリックの教義とは明らかにズレている。しかしそれは「人文主義」的な関心から生じたカトリックへの反抗と理解していいのかどうか。そもそもスコラ神学自体が11世紀頃にまでしか遡れない、歴史の浅い派閥に過ぎない。スコラ神学に逆らったからといって、直ちにルネサンスの仲間に入れて大丈夫なのか。またたとえば具体的には1453年に滅亡したビザンツ帝国との関係はどうだろう。ビザンツ帝国滅亡はエラスムスが生まれる10年少々前の出来事であり、存命中にはヨーロッパ全土にビザンツ帝国の記憶が生々しく残っていたはずだ。さらに言えば、確かにビザンツ帝国は滅びたものの、東方ギリシア正教会そのものはコンスタンティノープルからキエフやモスクワへと本拠地を移して生き残り、ギリシア語で組み立てられた東方キリスト教は21世紀の現在もロシア正教となって健在だ。もちろんエラスムス存命中にも活動している。だとしたら、パリ大学を始めとするスコラ神学がエラスムスを警戒したのは、それが人文主義的だからというよりも、現在進行形で敵対していた東方ギリシア正教会に連なるものだったからという可能性はないだろうか。また逆に言えば、エラスムスの関心も、従来言われているようにギリシア古代の「古典」そのものにあったというより、現在進行形で問題となっていた「分裂した東西キリスト教会の再統合」にあった可能性はないのだろうか。実際15世紀にはフィレンツェ公会議において再統合への試みが引きつつき行なわれている。そう考えると、西ローマ帝国以後のカトリック教会で独自に進化した「修道会」等の制度や儀礼に対してエラスムスが冷淡なのも説明がつきやすい。エラスムスが繋ごうとしていたのは、具体的には「古代と近代」ではなく、「東と西」だったのではないだろうか。
 ちなみに本書には以下のような記述がある。

「異教の古典を重んずる古典尊重、古典主義と、キリスト教精神を融合させようとするいわゆる「キリスト教人文主義(humanismus Christianus)はペトラルカ(1304-74年)にはじまるとされるが、ペトラルカが異教ラテン世界に深くのめりこんでいったのに対し、エラスムスが早くから、「よき学問」を、あくまで神学・聖書研究のための予備課程としてとらえ、副次的なものに位置づけていたことは注目される。」22頁

 どうだろう、私の印象では、ペトラルカもエラスムスと同じく、異教ラテン古典を「神学・聖書研究のための予備課程としてとらえ、副次的なものに位置づけて」いる。深くのめり込んでいるような印象はない。そしてペトラルカ存命中はもちろんビザンツ帝国も健在で、ビザンツから訪れたギリシア知識人とペトラルカは実際に交流していたりもする。だとするとペトラルカのギリシアに対する関心も単なる古典教養趣味というよりは、同時代的な大問題である「東西協会の分裂」という現実に規定されていたと考えるのが自然ではないだろうか。東方からもたらされるギリシア古典そのものに魅了されたのは間違いないとしても、それは伝統的なカトリックの勢力圏内で咀嚼されたのではないだろうか。そしてその事情は、エラスムスにとっても同じような気がする。

【今後の研究のための備忘録】印刷術
 ただしエラスムスがペトラルカと明らかに異なる文脈に位置付くのは、印刷術のせいだ。ペトラルカの時代にはなかったテクノロジーによって、エラスムスはインプット(ギリシア語原典へのアクセス)でもアウトプット(著書や手紙の印刷出版)でも、かつて誰も持つことを許されなかった巨大なアドバンテージをフル活用できる立場にある。

「エラスムスがその在世中に名高い存在となり、ヨーロッパ全土に影響力をもつ存在となったのは、彼が書簡を含む全著作を、当時のヨーロッパ知識人の共通語であり国際語であったラテン語で書いたためであるが、またひとつには、当時における印刷術の急速な発展と出版業の興隆という事情も加わっていた。」13頁
「エラスムスの膨大な著作が広く流布し、影響力をもつに至ったのは、やはり印刷術の進歩によるところが大きい。この空前の多作な著者が執筆生活に入った時代は、ちょうどヨーロッパで印刷術が発達完成し、それまでの手写本に代わって、活字本が多量に刊行された時代でもあった。エラスムスこそは、まさにその活字本の申し子であって、その著作活動は、彼が深くかかわったヴェネツィアのアルド・マヌーツィオの印刷工房や、バーゼルのフローベンの出版事業と緊密に結びついていることを見逃してはなるまい。」14頁

 だがしかし、ここでは印刷術を脇役として話が進むが、実は16世紀ルネサンスの本丸は「印刷術」であって、ダンテやペトラルカの14世紀イタリアから16世紀のエラスムスやトマス・モアに関わるいわゆる「人文主義」は、ビザンツ帝国やイスラム世界の存在を背景とするいわゆる「12世紀ルネサンス」に連なる中世的な事象ではないだろうか。エラスムスは「近代の始まり」ではなく「中世の終わり」を代表している可能性はないか。その場合、もちろん「近代の始まり」のメルクマールは「印刷術」であって、エラスムスがその恩恵を受け効果を発揮した「活字の申し子」なのは間違いないとしても、「近代の始まり」はルターによって「ドイツ語」で活字出版された聖書になるのではないか。あるいは「近代の始まり」をペトラルカやエラスムスのような人文主義者に見たがるのは、同じく読書人の系譜に連なる近現代の知識人や研究者の過度な思い入れに過ぎず、近代はもっと身も蓋もないところ(たとえば俗語と金にまみれた低俗ジャーナリズム)から始まったりはしていないか。たとえば同時代に激しく進行していた「大航海時代」の影響が人文主義の文脈で顧みられない(トマス・モア『ユートピア』除く)のは不気味だ。実は資本主義の急速な進展と国民国家の形成が、人文主義の動向などとは無関係に、身も蓋もなく近代(無神論・唯物論・俗世主義)を推し進めていくのではないか。トマス・モアが『ユートピア』で喝破した「囲い込み」に象徴される資本の本源的蓄積について、エラスムス他の人文主義者はそれが将来何をもたらすか予見できていたか。

沓掛良彦『エラスムス―人文主義の王者』岩波現代全書、2014年