【要約と感想】山田晶『アウグスティヌス講話』

【要約】カトリックの聖人アウグスティヌスを、近寄りがたい偉人としてではなく、具体的なエピソードを通じて身近な人間として捉えながら、煉獄と地獄、三位一体論、悪、終末、休日など、カトリックのトピックについての理解を深めます。

【感想】特に日本人が誤解しがちなトピックにターゲットを絞って、カトリックの教義を解説しているように読んだ。東洋思想との類似性を挿入しているのも、意図的なのだろう。カトリックとしての言い分はよく分かった気がする。が、言い分を理解したとして、納得するかどうかはまったく別の話なのだった。やはり私には、カトリックの言う神とは別の神がいるようだ。

【個人的な研究のための備忘録】三位一体
 本書は、カトリックの最重要奥義である「三位一体」について、非常に分かりやすく解説している。特に感心したのは、アウグスティヌスを媒介にして西方教会と東方教会の考え方の違いを極めて明快に打ち出すことで、三位一体教義と「ペルゾーン」の意味内容を浮き彫りにしているところだ。これで「人格」という日本語の意味内容がペルゾーンという原語と比較して圧倒的に貧弱であることも明確になる。勉強になった。「解説」では本書の中で最も困難だなどと書いてあったが、三位一体の奥義をこれ以上分かりやすく説明することはできないのではないか。

「たしかに「人格」はペルゾーンであるが、ペルゾーンはすべて「人格」であるとはいえない、と。というのは、人格だけがペルゾーンであるのではなくて、神もまたペルゾーンである。したがってペルゾーンは、神にも人間にも通じるもっと広い概念であるといわなければならない。」p.115
「この「ペルソナ」というラテン語を三位一体における御父、御子、聖霊にあてはめたのは、二世紀後半から三世紀前半にかけて活躍したアフリカの教父テルトゥリアヌスです。彼はもともと法律学を勉強した人です。ですから法律的な概念を三位一体の教義に適用したといえるでしょう。すなわち、御父、御子、聖霊はその本質は一なる神であるが、それぞれの役割において相互に区別される独立の主体であるという意味で、ペルソナなる名を三者に適用したのであると思われます。」pp.121-122

 私の興味関心に照らして、決定的に重要なポイントに触れている。ペルソナというラテン語(つまりローマ帝国首都の言葉)は、もともとローマ法の中で鍛えられた言葉だ。近代日本の法体系においても、ローマ法以来の伝統を引き継いで、「人格/物件」の厳密な峻別をいちばん根底の土台に据えている。この場合の「人格=ペルソナ」は、法的責任の主体という意味であって、禁治産者や奴隷や精神異常者など法的責任の主体たり得ない者には適用されない。だから単純な「人間」という意味ではない。共同体の中でしかるべき責任を取り得るような、「自由」と「責任」を持つ人間にだけ適用される言葉だ。
 で、著者によると、このローマ法以来の伝統を持つ言葉をテルトゥリアヌスが宗教用語に援用したということになる。ポイントは、「自由と責任」という概念と表裏一体の「ペルソナ」というラテン語を援用したのが西方教会(いわゆるカトリック)だけであって、東方教会では別の言葉(ギリシア語のヒュポスタシス)が使用されたという事実だ。このヒュポスタシスなるギリシア語は、英語ではsubstanceにあたり、日本語では「基体」とか「実体」などと呼ばれる。これも日本語では極めて分かりにくい概念ではあるが、さしあたっての要点は、このヒュポスタシスという言葉には「自由と責任」というイメージがつきまとわないというところだ。西方教会と東方教会で同じ三位一体の教義を説きながら、西方では「自由と責任」と密接な関連を持つペルソナなるラテン語を用い、東方教会では「自由と責任」とは無関係なヒュポスタシスなるギリシア語を用いた。この差が、後に西と東の間に決定的な懸隔を生じさせる、というストーリー。

「ただ、私の思いますのに、聖霊は「父から子を通して」出ると取るのと、聖霊は「父と子とから」出る取るのとでは、実質的に何の相違もないとしても、何か力点の置き方に相違が出てくると思います。そしてその相違が、三位一体なる神の捉え方においても、相違を生じてくると思います。そしてこの相違は、東方教会においては、父、子、聖霊が「ヒュポスタシス」として把握されたのに対し、西方教会においては「ペルソナ」として把握されたというこの相違に何か関係が在るように思われます。そしてそのことが、東方においては発展しなかったペルソナの概念が、西方において発展したこととも何か関係が在るように思われます。」pp.126-127
「ギリシアの教父たちによって把握され表現されたキリスト教の神は、ネオ・プラトニズムからその用語をかりながらも実質的にはそれと明確に区別された三位一体の神であったことに疑いはありませんが、それにもかかわらずその思考法において、ネオ・プラトニズムとの親近性を有するように思われます。」p.129
「東方教会に属する神学者たちが、多く否定神学的傾向を有し、その思惟方法においてアリストテレスよりもネオ・プラトニズムに近いのは、上に述べられたような三位一体の把握の仕方に由来するところが多いと思います。またこのような否定神学的傾向にもとづいて、西方教会において異端視されたエックハルトの思想が、現代の東方教会の代表的神学者たるロスキによって、高く評価され、深い共感をもって受け容れられる理由も理解されます。」p.131
西方教会の「このような三位一体の関係の把握は、神が理解する者であるとともにまた愛する者であることを前提としてはじめて成立します。それゆえこのような三位一体の把握においては、三者が「ヒュポスタシス」ではなく「ペルソナ」という名で呼ばれた世界において、すなわち西方教会の世界において、このような三位一体のペルゼーンリッヒな把握の仕方がはじめて可能になったというべきかもしれません。」p.134

 ここで、現時点でもちろん想起せざるを得ないのは、東方教会の正統な後継者を自認するロシア正教会の振る舞いである。ロシア正教会は完全にプーチンを支持し、侵略戦争を正当化するイデオロギーを提供している。もちろんカトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいなことをしているわけだが、最終的には一人一人の個人の自由と責任を尊重し、多様性を容認する民主主義の理念に馴染んでくる。ここにローマ法以来の伝統である「ペルソナ」概念が深く関わってくることを考えてはいけないだろうか。そしてその伝統と無関係のところで展開してきたロシア正教会の垂直的な権威主義を想起してはいけないだろうか。まあ、いっぺんに決めつけるには極めてデリケートなテーマであることは間違いないが、思ってしまったので、読了直後の個人的感想として書き記しておく。

「誰かにこのような附加をなさしめ、またその附加のなされた信経が、教皇の制止にもかかわらず、よろこんで唱えられるように西方教会の三位一体の解釈の方向をみちびいた者は誰であったかと問われるならば、それに対してははっきりと答えることができます。それはアウグスティヌスです。」pp.134-135
「アウグスティヌスの三位一体論が、西方教会に与えた影響が決定的であったことは、東方教会の神学者たちのアウグスティヌス批判からも知ることができます。(中略)一般に、東方教会の神学者たちの間で、アウグスティヌスの評判はかんばしくありません。このことは裏からみれば、西方教会の神学の形成において、アウグスティヌスの思想の影響力がいかに強大であったかを証明します。ペルソナの思想の発展は、西欧に固有のものであり、その根底に、アウグスティヌスによって捉えられた三位一体の思想が存しています。」p.137
「ところでわれわれ個々の人間も、理解し愛するはたらきの主体であるかぎりにおいて、それぞれ一個のペルソナであります、そこで、その理解し愛する対象が人間である他者に向い、私というペルソナと他人というペルソナとの間に、相互に理解し愛し合うという関係が成立するとき、そこに人間同士の間にペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係が成立します。親子、夫婦、兄弟、友人同士、等のいわゆる人倫関係は、その意味でペルソナ的→ペルゼーンリッヒな関係であり、この関係の場に在るかぎりの個人は、それぞれ一個のペルソナ→ペルゾーンです。この意味で、神のうちに三つのペルソナペルソナ的関係が成り立つように、人間の世界に人間同士の間にペルソナ的関係が成立します。」pp.139-140

 つまり、ペルソナとは単なる「個人」ではない。社会から切り離されてあらゆる文脈を無視したところに浮遊する「個人」ではない。社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主体」である。稲垣良典の言う「存在・即・交わり」だ。
 そしてヨーロッパとは、この「存在・即・交わり」という有り様を、国の有り様にも適用して理解した。一つ一つの国には、国際社会全体と関係を切り結びながら何らかの役割を担いうる「主権」を持つ。そうして、大きな国も小さな国も、それぞれの役割を果たしながら、国際社会の中で同等の尊厳を持つ。ロシアのプーチンには完全に欠落している考え方である。
 さて、とはいえ、このストーリーは西欧(およびカトリック)にとって都合の良い仮説に過ぎない。カトリックも歴史的に振り返ってみればたいがいだったことは忘れてはならない。「ペルソナ」概念の展開を考える際には、一つの立場から決めつけることを慎み、多様な観点から丁寧に光を当てていく必要がある。

山田晶『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、1995年