【要約と感想】鹿子生浩輝『マキァヴェッリ―『君主論』をよむ』

【要約】マキァヴェッリ『君主論』は誤読されています。単に権謀術数を推奨する内容の本ではありません。普遍的・一般的に読むのではなく、当時のフィレンツェが置かれた状況を踏まえた上で、マキァヴェッリがメディチ家に就職するために用意した論文として読みましょう。そしてローマ史を論じた『ディスコルシ』と合わせて読むと、マキァヴェッリが共和政の自由を重んじる姿勢が見えてきます。また、近代国民国家などまったく考えておらず、中世的な枠内でフィレンツェという都市国家の統治を考察しています。ただし運命に唯々諾々と従うのではなく、人間の力量(ヴィルトゥ)の意義を前面に打ち出した世俗的な精神は、キリスト教的世界観から離れて近代的です。

【感想】『君主論』は実際に自分で読んだけれども、古代ローマ史批評『ディスコルシ』は読めていないので、これがマキァヴェッリを理解する上で極めて重要な補助線になることがよく分かった。勉強になった。
 たしかにマキァヴェッリの祖国フィレンツェは、ローマと同じ地方(イタリア)の同じ共和政の都市であって、偉大な先例として古代ローマの政治や文化を参考にしたくなる気持ちはよく分かる。さらに言えば、ローマとは別に、トスカーナ地方の先輩であるエトルリアを参考にしようとしているところも興味深い。これは日本人が唐虞三代(古代中国)の政治思想を理想としつつ、一方で聖徳太子を参照しているようなものだろうか。

 で、マキァヴェッリの近代性を否定して、あくまでも中世およびルネサンスの思想家だとする見解は、個人的には腑に落ちた。私も『君主論』を自分で読む限り、確かにそう判断したくなる。マキァヴェッリは共和政における「市民の自由」を重視しているものの、それは古代ローマ共和政に由来していて、近代的な国民国家をイメージして言っているわけではない。マキァヴェッリの主張に過度に近代性を読み込むのは、著者の言うように、確かに単に後知恵に過ぎないだろう。
 一方、キリスト教的世界観から離脱して近代に足を一歩踏み入れているという評価はどうか。個人的には、そういう観点で言えばフィレンツェの先輩ボッカッチョのほうが遙かに世俗的のように思える。しかし、それで以てボッカッチョを近代的に理解していいかというと、そういう単純な話でもないだろう。同様に、確かにマキァヴェッリは世俗性に突き抜けているように思えるが、果たしてそれは近代性のメルクマールたりえるのか。ひょっとしたら、ボッカッチョから続く「フィレンツェ(あるいはイタリア)のみに特有の人文主義」が世俗性として表面に現れているだけで、それを近代性と理解してよいかどうかについては改めて別の指標を踏まえて考える必要があるのではないか。
 ともかく改めて、フィレンツェの14世紀~16世紀初等は特別な場所と時間であることを感じたのであった。中世やルネサンスについて云々しようと思ったら、どうやらフィレンツェに対する具体的な知識と理解が必須のようだ。

鹿子生浩輝『マキァヴェッリ―『君主論』をよむ』岩波新書、2019年