【要約と感想】広田照幸『教育改革のやめ方―考える教師、頼れる行政のための視点』

【要約】ここ30年来の教育改革はおかしなことになっていて、成果よりも副作用のほうが大きく、単に現場が疲弊するだけの結果に終わっています。特に、勉強不足の政治家が簡単に教育に口が出せるようなシステムになってから、異常な政策が簡単に通るようになってしまいました。いちど立ち止まって、現実を直視して、本質的なことをじっくり考えた方がいいでしょう。

【感想】教育改革とやらに大学教員として振り回されている立場からしても、「もっとも」だとしか思えない内容なのだった。無駄な書類が多すぎ。
おそらく、政治家や官僚や民間企業などなどが「教育の専門家としての教師」を信頼していないのが根本的な問題なのだろうと思う。現場の教師よりも自分たちのほうが教育についてよく知っているとすら思っているのだろう。根は深い。

【個人的な研究のための備忘録】
「個性」という概念に対して広田先生の考え方が端的に表現されているのが興味深い。

「ここ二〇年くらい、個々の子どもに学校が向き合おうとする改革が続いてきました。八〇年代の臨教審で「個性重視の原則」が打ち出され、日本の学校教育はその方向に向けて大きく変わりつつあります。その中には確かに大事なものが含まれている。そこに視点を向けたことには好感を持ちます。」p.45

「こうした考え方は一九八〇年代半ばの臨教審で打ち出された「個性重視の原則」という考え方に沿って展開してきたものです。臨教審の第一次答申(一九八五年)では「個性重視の原則は、今時教育改革の主要な原則であり、教育の内容、方法、制度、政策など教育の全分野がこの原則に照らして、抜本的に見直されなければならない」とされていました。一九九〇年代には、この「個性重視の原則」に沿って、いじめや不登校、障害を持つ子どもや日本語の指導が必要な子どもなどへの対応が改善されてきました。同時に、「関心・意欲・態度」の重視から「主体的・対話的で深い学び」に至るまでの、主体的な学習への転換が図られてきました。」p.27

「広田 個性を重視する教育というと、一人ひとりに丁寧に教えることも含めて、資源が必要な教育への転換を意味していると思うんです。初中局として個性重視の原則という教育の考え方をどう受け止めたかということをお聞きしたいんですが。
菱村 初中局としてはそれは、どうぞという感じでした。個性重視の教育はいまでも学校教育の中でやっていますからと。特別に何かやらなければいけないという認識はまったくありませんでした。
広田 ああ、そうですか。実は、私はコンセプトの登場を契機に文部省には特別なことを手がけてほしかったと思っています。定員を四〇名にして〔四〇人学級〕ようやくそれが進んでいる時期ですが、一人ひとりの個性を重視するとなると、もっとたくさん先生が必要になるだろう……と思うんですけれど。」p.28

研究者の間では、臨教審が打ち出した「個性重視の原則」の評判は必ずしも良くはない。「個性」という言葉が新自由主義的な「教育の自由化・民営化」の文脈からひねり出されてきた、と理解されているからだ。しかし一方、広田先生は「個性重視の原則」を高く評価する。もちろん新自由主義的な観点から評価しているのではなく、「教育方法」の領域に押し込めた限りで評価するわけだ。そして、「個性重視の原則」という流れを利用すれば、文部科学省はもっとうまくやれた(金を引っ張れた)のではないかと見ている。しかし文科省のほうはうまくやる気はなかったらしいことが分かったのであった。

広田照幸『教育改革のやめ方―考える教師、頼れる行政のための視点』岩波書店、2019年