【要約と感想】大内裕和『教育・権力・社会―ゆとり教育から入試改革問題まで』

【要約】1999年以降の約20年間に発表された論文をまとめた本で、教育に関する幅広いテーマを扱っていますが、新自由主義に対して原理的に批判を加えているところで筋が一本通っています。
現代の教育には様々な課題がありますが、問題の根底で共通しているのは新自由主義の暴力です。自らを拡大再生産するには絶対に「外部」を必要とする資本主義は、人間ひとりひとりの人格を「外部」として商品化することを可能とする技術とレトリックを高度化させてきました。具体的には「個性」や「自由」というレトリックが、人々の人格を商品化する技術として活用されています。教育が歪んでいるのは、そういう新自由主義の圧力が臨時教育審議会以降急速に強くなっているせいです。新自由主義によって、ますます格差が拡大していきます。

【感想】あらゆるものを商品化せずには止まない資本主義の圧力が、どういうふうに教育を草刈り場にしていったかがよく分かる内容になっている。人々の個性とか人格というものも既に商品化されている。商品化されているということは、搾取の対象にできるということだ。そのテクノロジーとレトリックの発展は留まることを知らない。地球上の「物」には限りがあるが、人々の個性や人格というものには限界が見当たらない。「情報化」とは、資本が「無尽蔵な資源:人々の個性や人格」を発見し採掘し加工し商品化し流通し陳列し消費し搾取するテクノロジーのことだ。新自由主義における教育とは、そういう情報化社会に適応して、自らをより価値ある商品として加工していく振る舞いを身に付けていく技術とみなされる。
だとすれば、教育の成果を数字で表せると勘違いしてしまうのも頷ける。そういう観点からすれば、教育による格差拡大は、むしろ大歓迎なのだろう。「総合的に見れば格差が拡大すればするほど資源が増える」くらいにしか考えていないように思える。新自由主義を支持する勢力は、格差が拡大するメカニズムを理解した上で、敢えて格差を拡大する方向に圧力を高めている感じすらする。
まあ、いつかどこかでしっぺ返しを食らうのだろうけれど、巻き込まれるのは嫌だなあ。

【個人的な研究のための備忘録】
「個性」という概念に対して興味深い言質を得た。特に臨時教育審議会において「個性」という概念がどのように変容し流通したかが、けっこうコンパクトにまとまっていて、ありがたい。論文を書く時に、どこかで引用させていただくことになろう。

「こうした労働力の差別化を支える教育改革を正当化するキーワードが「個性」であった。「個性」の登場も臨教審に遡ることができる。臨教審での第一部会「自由化」論に対して、第三部会から強い批判が出され、議論の結果としてまとまったのが「個性重視の原則」という表現であった。この「個性重視の原則」とは第一部会と第三部会の妥協の産物というより、両者の主張を包含した概念であると言えるだろう。
個性重視の原則」は、教育の「自由化」論の文脈で考えれば、学校が市場競争のなかで、それぞれの個性や多様性を発揮することが重視されるということを意味する。「選ばれる個性」をめぐって学校間の競争が激しくなり、その結果格差が生まれる。ここでは「個性」は「能力」とほぼ同義である。しかし「個性」という言葉によって能力主義的差別の強化が覆い隠される。
個性重視の原則」を第三部会の反「自由化」論や国家主義、権威主義の文脈で考えるとどうなるだろうか。「個性」とは、そもそも主体的・能動的な意味を帯びた言葉である。しかし、「個性重視の原則」が教育目標として設定されるとは何を意味しているのか。それはあらかじめ設定されている「与えられた」個性であり、自ら選び取ることのできるものではない。学校は「与えられた」個性を発揮できるか否かで市場評価される。グローバル市場を勝ち抜くことのできる「個性」をめぐる競争に、学校は「強制」的に駆り立てられることとなった。
しかも「個性」の持つ主体的なニュアンスは、その結果を自己責任として甘受する感覚を醸成する。これによって自由競争によって生み出される格差が正当化され、秩序が形成される。これは臨教審第三部会の主張をも満足させるものである。彼らは教育の「自由化」が無秩序をもたらすことを警戒したのであり、自由競争そのものを否定してはいないからである。
こうして「ゆとり」と「個性」の教育改革が、一九九〇年代に急速に進められることとなる。」pp.224-225

まあ、そういうことですね。
また、「象徴資本としての『個性』」という論文は、全編が「個性」の商品化について扱った内容になっている。なかなか読み応えがある。

大内裕和『教育・権力・社会―ゆとり教育から入試改革問題まで』青土社、2020年