【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』

【要約】独創性の必要ない単純労働を大勢に我慢させてやらせる時代には日本の教育はうまくいっていましたが、現在では完全に時代遅れになっています。単に過去を記憶して正確に再現させる学力では、変化の激しい時代に対応できません。これから必要なのは、自分で考え判断し学び続ける「未来の学力」です。
参考となるのが、フィンランドの教育です。地域間格差を徹底的になくし、個人差に対応することで、世界一の学力を実現しています。教育の専門家としての教師の権威が高く、行政も適切なサポートに徹しているからです。素人である政治家が思いつきで適当に口を出す日本とはまるで異なっています。
日本は、英米の弱肉強食型新自由主義を採用してからおかしくなりました。多文化共生のEUに学ぶべきです。

【感想】本書が出版された2008年は、いわゆる「学力低下」に関する論争が一段落し、詰め込み型の学力観が一定程度の勢力を確保していた時代だった。そんななか、本書は旧来の学力観を徹底批判し、「未来の学力」の旗印を掲げる。だから、口ぶりも過激に流れがちになるのも、無理はないような気はするのだった。
とはいえ、2019年現在の地点から見れば、著者の考え方が勝利を収めているように見える。文科省はOECDのほうばかり見ている。(本当に本質を理解しているかどうかはともかくとして。)
本書は、学力低下論争の最中に投じられた一石として、十分に役割を果したということかもしれない。

【今後の個人的研究のための備忘録】
学力観の転換を考える上で、示唆に富んだ表現が極めて多い。

「日本の学力観は「何を学んだか」を最重要視しますが、EUは学力観を「これから何ができるのか」にシフトしたのです。」12頁
「知識の量や計算スピードを測るという学力はEUの眼中にはありません。たとえ計算など遅くても、また知識量は少なくても、問題を把握する力、その問題を解決するために何を応用するのか、なにが必要なのかを選別し組み合わせる力が、今日の学力として問われるのだと、はっきり言っているのです。」16頁
「さまざまな人間のあいだで発揮される多様な能力――それを学力という。そう学力像は変わったのです。」16頁
「いまの日本に必要なことは、学力の詰め込みという教育観を変えることです。また受験や就職に役立つものが学力なのだという学力観を変えることです。」18頁
「日本人の多くは、学校教育を通じて養われるものが「学力」だと信じて疑わぬようです。」21頁
「新自由主義は、学力は商品にすぎず、資格や免許にとどまり、真の能力、人生や生き方、考え方、成長につながる学力としてはとらえていません。」29頁
学力とは何かを規定することはとても難しいことです。学力の定義は、教育研究者の数ほどあるといった見方さえあります。(中略)学力の暫定的な仮説とは、
・学校教育において育成されるべき能力
・学齢期に形成される能力のうち、将来の基盤となる重要なもの
です。」123頁

まあ、同じことを様々な角度から述べているわけではある。つまり、「ゆとり教育」は正しかったのだ。(著者は「ゆとり教育」という言葉を前面には打ち出さないけれど)

また「大人と子どもの境界線」についても、興味深い記述がある。

「日本の法律体系は、子どもと大人のあいだに明確な境界線を設け、それぞれまったく違う対応をしています。しかし教育の論理では、人は子どもから徐々に大人に成長する者であり、ある日突然、大人になるわけではない。
その「徐々に」の段階で自立への支援をし、子どもの自由度が高まるような教育をすることこそが肝心なのです。その自由の中で自分をコントロールし、失敗したときには自分で責任をとるような力を身につけさせていく。
ところが日本では、力をつけて自立しようとする子どもを「まだ子どもだから」という理由で抑圧し、大人の支配下に置く教育方法がとられています。自立できるように人間を育てようとしていないのです。」119頁

厳密に言えば、「日本の法律体系」というよりも「近代的な法律体系」と言ったほうがいいのだろう。ヨーロッパでも、近代になってから「子どもと大人のあいだに明確な境界線」を設けるようになったわけで。
しかし1945年以降、ふたつの観点からこの境界線が壊されていく。ひとつは「生涯教育」の理念で、これは近代的な大人概念を相対化する。もうひとつは「子どもの権利」の理念で、これは近代的な子ども概念を相対化する。
学力観が変わるのも、土台にあるのは「子どもと大人のあいだの境界線」が相対化したことにあるように思うのだった。

【要約と感想】福田誠治『子どもたちに「未来の学力」を』東海教育研究所、2008年