【要約】学校の先生(保健室の養護教諭含む)が主人公だったり重要なキャラクターとして登場する短編小説6本のオムニバスです。
ほぼ全ての作品に共通しているのは、おとなになるとはどういうことかということ、そしてそれを受け容れる際のほろ苦さとの付き合い方です。
【感想】40代になってから読むと味わいがある作品群のような気がするんだけど、若い人はどう読むのかなあ。分かるのかなあ。言葉の表面的な意味は追うことができても、ある程度の人生経験を積まないと本当のところは分からないような気がしないでもないのだが、どうだろう。
【言質】「おとな」に関する文章がたくさん出てくる作品群だ。
教育史学の知見から言えば、その通りなのであった。学校教育(すなわち教師)と「大人/子ども」の分離という事態は、理論的に同時に発生する。
「私は両親に言った。「高校は卒業できなかったけど、立派におとなになってました」とつづけると、」243頁、泣くな赤鬼
「悔しさを背負った。おとなになった。私の教え子は、私の見ていないうちに、ちゃんと一人前のおとなになってくれたのだ。」245頁、泣くな赤鬼
「そういうあだ名を付けられる教師は、じつは意外と生徒から好かれているものなのだ。――おとなになったいまなら、なんとなくわかるのだけど。」253頁、気をつけ、礼
「不満が顔に出たのだろう、父親は「子どもじゃのう」と笑い、静かに言った。」268頁、気をつけ、礼
要するにつまり、「おとな」とは現実と折り合いをつけて自己を自己として定位した存在を言うようだ。確かにそれは論理的にも「自己実現」のモードだ。本書では夢に破れ理想を失いながらも、現実の中に自分を定位させていく姿が切なく描かれていく。それが「おとな」になるということと言いたいわけだ。
まあ、いろいろ思うところはあるが、切ないのは間違いない。なれなかった自分や切り捨てていった可能性に対する諦め、そしてそれを抱えながら前に進む姿勢が、切なさを増幅させるのであった。
そして「せんせい」とは、そういう自己実現を強制する役割を課せられているからこそ、おとなになることの意味を扱う作品群で重要なポジションを得るのかもしれない。教育とは自己実現を促すことであり、自己実現とは子どもを断念(止揚)することなのだ。