【要約と感想】トゥーキュディデース『戦史』

【要約】ギリシア世界が一体となって異民族ペルシアからの侵略を撃退してから50年、今度はギリシア人同士による長く激しい戦争が始まりました。アテナイ連合軍とスパルタ同盟軍が27年も闘った、ペロポネソス戦争です。本書はその前半20年分の記録です。アテナイ降伏に至る最後の7年は、残念ながら扱われておりません。
ペロポネソス戦争を教科書的に理解すると、なんとなくアテナイとスパルタがガチンコで正面衝突するような形を想像してしまいがちですが、実際の経緯はまるで異なります。実は自由帝国主義アテナイと身分制スパルタによる、植民地の取り合いです。戦線は、ギリシア北東部のトラキアやマケドニア、あるいは北西部のケルキューラ、またあるいはエーゲ海対岸のイオニア地方やシケリア島を含むイタリア諸都市へと広がっていきます。アテナイ本国を巡って戦闘が行なわれたのは27年のうち最終盤も最終盤で、実は本書はそこに至る前に話が終わってしまいます。

【感想】ペルシア戦争を扱ったヘロドトス『歴史』と比較すると、本書の特徴が際立つ。本書は、著者の主観を極力排除した客観的な描写が印象的だ。ヘロドトスのほうは情報源や客観性が担保されていない噂話レベルのエピソードを極めて多く採用しているが、本書のほうは確かな情報のみに拠って客観的な記述を心がけているように見える。訳者のきびきびした日本語も、その印象を高めるのに一役かっているのかもしれない。日本語のリズムが、とても良い。

その文体的な特徴に伴っているのだろう、本書は具体的な戦術や戦闘レベルの描写に非常に優れている。ヘロドトスのほうは、ペルシア戦争を扱っていながら、具体的な戦闘シーンの描写はほとんどない。戦術レベルの話にも厚みがない。熱を入れて描写しているのは、戦闘前の神託や占いだったりする。しかし本書は、極めて詳細に戦術レベルや戦闘レベルの描写を尽くしている。両陣営の総戦力、経験値、指揮官とその履歴、進軍ルート、陣構え、兵站に加え、会戦場の地政学的な特徴、会戦に至る背景、両陣営の士気や心理状態が細かく描写されている。だから戦闘の帰趨は、精神的なもの(たとえば「自由の精神」)ではなく、客観的な環境や条件によって決まる。本格的な会戦で陣形が右へ右へと押しだされる客観的な根拠は、なるほど、勉強になった。こういうところは、ヘロドトスには完全に欠けているところだ。

詳細な籠城戦描写にも、感じ入った。土木工事の重要性が、心底よく分かる。特にアテナイによるシュラクーサイ侵攻では、土木工事のスピードが勝負の分かれ目となった。日本の戦国時代でも土木工事は極めて重要だったはずなのだが、地味なためなのだろう、あまりクローズアップされることはない。しかし織田信長や豊臣秀吉、あるいは武田信玄や真田父子の強さが土木工事に拠ることは明らかだろう。そういう戦争というもの(特に籠城戦)における土木工事の意義をこれほど高い説得力で描いている本は、古今東西を通じてほとんどないのではないか。

戦術レベルの話では、特に「内乱」と戦争との連携が極めて印象深かった。攻城戦の帰趨は、外部の戦闘行為で決着がつくのではなく、お互いの内部にいる反乱分子を扇動できるかどうかで決まる。個々の戦闘行為は、内部崩壊を引き起すためのきっかけに過ぎないとも言える。というか、個々の戦闘行為も、内部扇動がきっかけとなって連動して発生する。「戦争」と「内乱」は、密接不離に連動している。
その際、アテナイの手口が現代のアメリカ帝国主義と重なって、なかなか笑えない。敵側の自由民主主義勢力に力添えをすることで、内部から封建的身分制秩序を壊すというやり口。自由民主主義にシンパシーを感じている立場からいえばなんの問題も感じないかもしれないが、戦略的に見ると、実はただ単に相手側の内乱を誘うための口実に過ぎないという。そしてシケリア島侵略などに見られる通り、「民主主義を広める」というスローガンが単なる表面的な口実に過ぎず、本音は領土侵略にあるというところも。そうすると、本書で描かれたスパルタの言い分ややり口(帝国主義からの解放)が、現代のロシアに重なって見えてくるのであった。いやはや。

【今後の研究のための備忘録】
やはりソクラテスの処刑やプラトンの思想形成との関係は、とても気になる。ソクラテスの処刑は、ペロポネソス戦争終結から5年後のことだ。戦争や戦後処理の影響と無関係であるはずがない。本書では「民主主義」の機能不全や、扇動に惑わされる一般大衆の愚かさが縦横に描かれている。もしアテナイの一般大衆がかくも愚かであったのなら、ソクラテスが処刑されるのも仕方がないことなのかもしれない。
メディアリテラシーが低く、デマに踊らされ、簡単に扇動される民衆の姿は、現代の我々の姿にも通じる。

「このように、大多数の人間は真実を究明するためには労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける。」上巻73頁

プラトンの思想形成にとって、ペロポネソス戦争の経緯はやはり決定的な影響を与えているのではないかと思ってしまう。アテナイ民衆の自己中心的な欲望暴発と道徳退廃は、プラトンの民主主義嫌悪と哲人政治推進の背景になっているだろう。

「愛国心」に関しても、興味深い記述があった。まあ、ギリシャ語の原語で「愛国心」がどう表現されているかは、しっかり検討する必要があるが。
まずペリクレスの演説の中から。

ポリスを愛し、金銭の誘惑に負けぬことでも何びとにも引けを取らぬ。」上巻246頁

ペリクレスは、自己中心的に欲望を満たすこと(金銭の誘惑)と、ポリスへの愛を背反するものとして描写する。愛国(正確には愛ポリス)とは、私利を度外視し、「公利」を追究することだ。
こんなペリクレスに対し、アルキビアデスの言う「愛国心」は、ちょっと様子が違ってくる。

「また私の愛国心とても、私に濡布を着せた国に捧ぐべきものにはあらず、市民として己が権利を守られていた国に尽す心情に他ならない。(中略)そもそも真の愛国者とはいかなる人か、己れの祖国を没義道に奪われながらこれを奪回しようともせぬ輩の称ではあるまい、己れの国を愛するがゆえに、あらゆる手段にうったえて取戻そうと務める者こそ、その名に値する。」下巻126頁

なんだかまあ。こんな理屈を言い始めたら、私利私欲にまみれた権力者もテロリストも、みんな愛国者になってしまうわけだ。

それから、専門の教育に関しても、興味深い記述があったので、メモ。まあもちろん、原語がどうなっているかは慎重に確認する必要があるが。
まずスパルタ側が自分たちの教育を自画自賛するアルキダーモスの演説から。

「われらがよき判断の主たりうるのは、法を犯す知恵をあたえず法にそむかぬわきまえを克己によって培う教育による。(中略)人間が人間である以上、もとより素質において敵味方に大差はない、しかし厳格無比の克己訓練で鍛えられたものこそ最後の勝利者たることを疑わない。
この教育の鉄則は、父祖いらいわれらに伝えられた伝統であり、われら自身生涯をつうじてその恩恵によって今日にいたったのであれば、その教をゆるがせにすることはならぬ」上巻133頁

いわゆるスパルタ教育の一端を伺うことができる記述だ。
一方のアテナイも、ペリクレスが自分たちの教育を自画自賛している。

「子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。(中略)ともあれ、苛酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危険をも肯ずるとすれば、はや此処にわれらの利点がある。」上巻227-228頁

スパルタ式訓練よりも、アテナイの自由な気風のほうが長い目で見れば優れた人材を養成するという考えが表明されている。そしてスパルタ式訓練とアテナイ式教育のどちらが優秀かは、現代でもまだ議論は終わらないのであった。

また「学校」について興味深い記述があったので、メモ。ボイオティア領のミュカレーソスの街(さして大きくもないらしい)がトラキア兵によって蹂躙される描写である。

「其処には非常に大きい、子供たちの学校があり、ちょうどその朝子供たちが校内に入り終ったところであったが、ここにも乱入した兵士らは、子供らを一人のこらず斬殺した。」下巻172頁

子どもたちだけを収容する「学校」が、大都会ではない小さな町にもあったことが分かる。この場合の「子供」が何歳くらいを指しているのかは、本書の描写だけでは分からない。ただ本書の著者が、この事件を非常に残念に思っていることは伝わってくる。古代において「子ども」とは何か、「学校」とは何かを考える上で、一つのヒントになる記述である。

ところで著者の表記は、ツキディデスか、トゥキディデスか、ツキヂデスか。難しいなあ。どうでもいいんだけれども。

トゥーキュディデース『戦史(上)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(中)』岩波文庫、1966年
トゥーキュディデース『戦史(下)』岩波文庫、1967年