【要約と感想】森田洋司『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』

【要約】いじめは昔からありました。また、世界中で発生しています。現代日本に特有の現象ではありません。ただし決定的に異なっているのは、いじめを深刻化させないための歯止めがあるかないかです。
近代化による「私事化」の傾向によって、集団や組織や地域社会のつながりが弱まり、世界的に歯止めが利かない状況になっています。私事化は、いじめだけでなく、非行や不登校など様々な子どもたちの問題の元凶ともなっています。
私事化傾向が止まらないのなら、いちばん良いのは市民性教育を推進して、集団への繋がりを強めることです。個々の内面への働きかけ(心理主義)には限界があるので、「社会づくり」に考えをシフトしましょう。いじめ問題を個人の問題として捉えるのではなく、公共の問題として、集団や社会の全員が責任をもって臨みましょう。児童会や生徒会を活用して、学校づくりに子どもたち自身を参加させましょう。

【感想】とても良い本だ。さすがに一日の長がある。まずは本書を読んでいじめの全体像や研究水準を把握した上で、各論に入るのが効果的なような気がする。
現在でもややもするといじめ問題を個人の心の問題に矮小化する傾向がなくもないが、本書が主張するように、根本的には社会的な広がりの中で解決していくべきものだ。そもそもいじめとは個人を孤立化させることで無力感・絶望感を与えようとするものだ。逆に言えば、孤立化を防ぐことができれば、深刻化に歯止めをかけることができる。そして孤立化を防ぐためには、心理主義的な働きかけでは限界がある。いじめの加害者や被害者に特有の心理的傾向が存在せず、誰でも加害者や被害者になり得る以上、心理的な働きかけにはさほど意味がない。「心づくり」に意味がないなら、集団全体(学級・学校・保護者・教員同士・地域)にネットワークを張り巡らせる「社会づくり」が重要になってくる。つまり「社会関係資本」が、決定的なキーワードになるのであった。

【要検討事項】
本書は、近代になってから「私事化」の傾向が拡大しているとして、「公」が衰退したと見ている。そして、「公」と「公共」をまったく同じものと理解し、「公共」が衰退したと主張する。しかし私の考えでは、「公」と「公共」は、違うものだ。私の見るところでは、「公」の力と役割は増大している。「公共」は、「私」と「公」に挟み撃ちにされてすり減っているように見えるわけだ。
私見では、「公」とは国家権力であり官僚組織である一方で、「公共」とは「私事の組織化されたもの」である。本書が言うNPO等に当たる。確かにそれは国家権力や官僚組織が担う「公」とは本質的に異なるものなのだ。
本書のように、論理的に「公」と「公共」を区別できていないと、どこかで足を掬われるような気がするが、いかがか。

【メモ】
いじめ研究で、大昔から連綿と続く「差別に端を発するもの」に言及するものは極めて少ない。本書はしっかり言及している。

「これまで社会的な差別に端を発して起きていたタイプのいじめを、「いじめ」という上位概念のなかに一般化して括り込んだことで、差別に固有の状況と対策を曖昧にしかねない面もあった。」(47頁)

本書の結論は、子どもたちの参画による「社会づくり」であった。それがきちんと「教育基本法」を踏まえて主張されているところは、好感度が高い。欲を言えば、子どもの権利条約の精神も踏まえてもらえば、もっと好感度が高かった。

「日本の改正教育基本法(二〇〇六年)第一条に示されているように、学校教育の最大の目的は、個人の人格の完成と社会を形成していく資質の育成にある。その生活の場である学校づくりに子どもたちを参画させることは、社会づくりのための資質の育成にとって大切な学習の機会となる。」(19頁)

「人格」という言葉の用例もサンプリングさせてもらった。

「いじめは人権に関わる問題といわれる。それは、いじめられた子どもたちが人格を踏みにじられることだけを意味するものではない。自分たちの力では抗うことのできない大人社会のまなざしによって、子どもの人格が踏みにじられているという事実も見逃してはならない。」(82頁)

森田洋司『いじめとは何か―教室の問題、社会の問題』中公新書、2010年