【要約と感想】ルーシー・クレハン『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?―5つの教育大国に学ぶ成功の秘密』

【要約】OECDのPISAテストで高得点を挙げる国の教育には、共通点があります。イギリスの元教師が、PISA上位のスウェーデン、シンガポール、日本、上海、カナダの教育現場に飛び込んで、効果的な教育について考察しました。
効果的な教育システムの共通点とは、(1)子どもが学校で勉強する準備ができている。(早期教育は必ずしも効果的ではなく、むしろ遊びなどを通じて社会的スキルを身に付けるほうが重要です)
(2)習得できるカリキュラムとやる気の出る授業内容を作る。(質の良い教科書を作りましょう)
(3)低いレベルで妥協しないで向上を目指すようにサポートする。(能力別のクラス編成はむしろ教育効果を下げます)
(4)教師を専門家として待遇する。(教師に内発的動機を与え、効果的な教育を実現しやすくなります)
(5)学校の成績責任と学校への支援を両立させる。(成果の上がらない学校に罰を与えることは、むしろ教育効果を下げます)
です。
要点を生徒自身に見つけさせたり、生徒たちが好む学習法に教師が合わせて教えたり、生徒たちに常に何らかの活動をさせて満足して、やたら子どもの能力を称賛するような、いわゆるアクティブ・ラーニングには、効果はありません。
ちなみに日本の算数の教え方は、アメリカやイギリスの教え込みと比較したとき、極めて先進的で問題解決的な洗練された方法です。

【感想】ミスリードする気満々の酷い邦訳書名を除いては、示唆するところの多いとても良い本だったと思う。(原題は「CleverLands」だもんなあ。)

まず興味があるのは、やはりイギリス人教師の視点から日本の教育がどう見えるかというところだ。たとえば「クラスというアイデンティティ」と「連帯責任」に対する批判的な視点は、アングロサクソンの個人主義的価値観からすれば、さもありなん、というものだった。本書は、日本のいじめの特殊性を「クラスとの同一化」と「連帯責任」に由来すると考える(93頁)。同様の見解は、日本人のいじめ研究者からも聞かれるところである。なにかしらの真実を突いているような気はする。
一方で著者は、日本人自身がダメだと思っている点を、かえって高く評価する。たとえば公立学校での教師の定期的な異動に感激している(97頁)。日本人自身からは教師の異動に否定的な見解を聞くことがけっこう多いのだが、イギリス人にとっては大感激に値することらしい。
またたとえば、算数における数学的概念の教え方が極めて優れていると言う(107頁)。日本人自身は日本の算数教育が遅れていると何かに付け主張したがるものだが、実際にはアメリカやイギリスよりも先進的で効果的な教え方をしているわけだ。丸暗記を押しつけているのは実は英米のほうであって、日本の算数教育は「考える」ことを推奨しているのである。
またあるいは、日本で行なわれている「授業研究」の素晴らしさに言及する(114頁)。「授業研究=lesson study」の効果はかねてから世界の教育関係者には知られていたわけだが、本書でもその効果が改めて確認されている。
またさらに、学習指導要領が「ここまでしか教えてはいけないという最大限の内容も規定している」ことに感銘を受けている(117頁)。日本人自身は、ゆとりの弊害としてことあるごとに批判してきたところだ。
そして驚くのは、著者が「日本の教師たちには時間にゆとりがある」(116頁)と書いていることだ。著者の観察が間違っているのか、あるいは日本人自身の感覚が何かズレているのか。解説の苅谷剛彦は著者の勘違いだと読み取っている。が、ひょっとしたらこの見解になにかしらのヒントが隠されている可能性は頭の片隅に残しておいていいのかもしれない。授業以外の勤務時間が多いことは、ひょっとしたら教員組織の同僚性になにかしらの影響を与えるのかもしれない(与えないのかもしれない)。
そして、「私には、ゆとり教育が成し遂げようとしたことは、ちゃんと成し遂げられたように見える」(122頁)とした上で、「ところが、ほんのささいなつまずきで、政府はうろたえて、人々が嘆いている「受験地獄」の軽減と、見たことのない問題の解決において日本の生徒たちが世界一になる可能性の、両方に効果的だと思われた改革を廃止してしまった」(123頁)と総括する。「ゆとり」を馬鹿にする大方の日本人の感想とは一線を画する見解が示されている。

そんなわけで、日本以外の各国の比較からしても、アクティブ・ラーニングがいかに効果の薄い教授法かということが明らかになったのであった。最新学習指導要領がアクティブ・ラーニングという言葉を排除し、撤退したのも、「効果がない」というエビデンスが集まっていることを察知したからなのかもしれない。
まあ、そんなことは明治時代の「開発教授」の失敗を見るだけで明らかなのではあるが、我々はなかなか歴史から学ばないのであった。歴史からは学べないが、本書のおかげで「比較」から学べる。

さて、とはいえ、そもそもの前提である「PISAテスト」に関しては、折に触れて反省しておく必要があるだろう。本書の目的は、あくまでもPISAテストの高得点に効果がある教育システムの探求だ。その目的自体が適切かどうかに関して、原理的な考察が行なわれているわけではない。目の前の「手段」に惑わされず、教育目的の原理的な追求を忘れないようにしていきたい。

【今後の研究のための個人的備忘録】
「人格」という概念に対する極めて重要な言質を得た。イギリス人のネイティブ感覚ということで、とても貴重だ。

「彼は、日本の教育の目的は「子どもたちを育成すること」だと説明した。これは読み書きや数学や科学を教えることより、はるかに広い範囲のものを含む。「日本の教室は学ぶためだけの場所ではありません。生活する場所でもあるのです。ですから日本のクラス担任は学問的なことだけを教えるのではありません。道徳のほか、あらゆる種類のことを教えます。教育とは生徒の人格を育成することだと法律に明記されており、私も本当にその通りだと思います」
校長室に座っていて、最初にリリーの通訳でこの言葉を聞いたとき、私は「生徒の人格(パーソナリティ)を育成する」とは、欧米とおなじように、生徒一人ひとりの個性(パーソナリティ)を引き出し、それぞれの独自性を際立たせるという意味だと思い込んでいた。ところが日本では、この思い込みは実際とはかけ離れていた。他の人たちとの会話や文献に照らして、ハシモト校長の言葉をひっくり考えてみると、彼が「人格の育成」という言葉で意味していたものは、英語では「developing character(人格の形成)」と考えれば、よりはっきりと理解でき、「developing their characters(個々の性格の発展)」とは正反対の意味になる。」(84頁)

この言葉から、「人格」という言葉に当初込められていた意味が戦後教育の展開の過程で変質していったことが明らかに見て取れる。教育基本法制定の段階で田中耕太郎が意図したのは、明らかにイギリス人著者がイメージした「個性(パーソナリティ)」に近いものであった。しかし1960年代後半以降では、「人格」という観念は明らかに「developing character」という儒教的な意味で理解されるようになっている。
いや、さらにうがって見れば、このイギリス人著者自体がすでに「personality」という概念を理解していない。「personality」を人類に普遍的な何かに接続する概念ではなく、単に「独自性」とみなしている点で、田中耕太郎が「人格」という観念に込めた宗教的意図とはそうとうズレている。
なかなか示唆的な言質を得たような気がする。

ルーシー・クレハン/橋川史訳・苅谷剛彦解説『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?―5つの教育大国に学ぶ成功の秘密』早川書房、2017年