【要約と感想】小笠原喜康『議論のウソ』

【要約】産業構造が大きく変化した現代では、誰かから一つの正解を教えてもらうのではなく、自分にとっての正解(幸せ)を自分で見つける姿勢が大事になってきます。そのためにも、分かりやすい正解に盲目的に飛びつくのではなく、一歩ひいて、ウソをウソと見抜ける自分なりの視点を持ちましょう。

【感想】14年前の本なので、個々の具体的な事例は既にかなり古くなっている。2011年以降だったら、具体的な事例としては間違いなく原発事故関連が取り上げられなければならなかっただろう。それにしても、「ゲーム脳」のデタラメさとか、もうすでにかなり懐かしい。
まあ、個々の事例は古くとも、本書が示す論理的な枠組みは古くなっていない。というか、現在進行形で意味がある議論を行っているように思う。数字やグラフのまやかしや、権威付けによるウソ、ムードに流される風潮は、現在でも後を絶たない。10年以上前にこれだけハッキリ指摘されているにもかかわらず、人間、なかなか進歩しないものではある。

【備忘録】
「個性」に関する言質を得た。まあ事実関係と理屈自体は各所で既に指摘されているところではあるが、いちおう言質をとって記録しておく。

「それ(ゆとり教育)は、端的にいえば、新たな資本主義の時代を構想したからである。この新たな資本主義の時代は、個性的な商品をたゆまず産み出す能力を必要とする社会である。」(191頁)
「こうした時代の変化を背景に、かつての「臨教審」はおこなわれた。したがって、そこでの教育改革の方向性は、こうした産業の変化に対応したものであったはずである。それが、「個性重視」だった。それは、一九世紀から二〇世紀にかけて標榜された学力とは全く正反対のものである。個性的な人間が個性的な情報を産み出すと考えられ、いかにすれば「情報」の時代を担う個性的な人間を育成できるのかがそこでの課題であった。そしてこれを進めるための改革を標榜するのが、「臨教審」で中心的なコンセプトになった「教育の自由化」である。」(198頁)

本書が指摘するように、臨教審の本音である「教育の民営化」が文教族議員の抵抗に遭遇して挫折し、妥協の産物として「個性」というキーワードがアリバイのように立ち上がってきたことは、教育学では常識の部類に属する。しかしどうやら世間ではこの常識が必ずしも共有されておらず、「ゆとり教育」に対しておかしな誤解が蔓延る原因ともなっているのだった。
そしてこの場合に臨教審が言う「個性」とは、もちろん代替不可能な唯一性に基づいた「individuality」ではなく、差異を産み出す「個人差」を指しているに過ぎない。臨教審が主導した「個性重視の教育」も、本書が指摘する「ムード先行のウソ」の部類に属するマヤカシなのであった。

小笠原喜康『議論のウソ』講談社現代新書、2005年