教育原論(保育)-5

短大保育科 5/16・5/18

前回のおさらい

・イニシエーション:「大人になる」ことの意味と過程が現在とはまったく異なっていました。
・リテラシー:大昔に大半の人が学校に行っていなかったのは、リテラシーが必要なかったからでした。
・大昔の学校:リテラシーを学ぶ必要のある人たちは学校に行きました。

今回の目標

・江戸時代の学校と教育者について理解しよう!
・近代学校教育の始まりと「学制」の意義について理解しよう!

江戸時代の学校と教育者

長期間にわたる平和と繁栄によって、学問が独自に発達を遂げていました。
*儒学:中国発祥の学問ですが、徳川家が推奨したのをきっかけとして、江戸時代の日本で独特の発展を遂げます。基本的には支配者階級のための学問で、主に武士が学んでいました。

昌平坂学問所:林羅山の私塾(1630年)を起源として、1790年に正式に幕府の直轄学校となりました。1871年に閉鎖された後、現在では建物が湯島聖堂として残っています。

藩校:全国に260ほどあった藩が、それぞれ作っていた教育機関です。水戸藩の弘道館長州藩の明倫館薩摩藩の造士館会津藩の日新館が有名です。

郷校:例外的に武士ではない人々も学ぶことができた教育機関です。岡山藩の閑谷学校が有名です。

私塾:学問サークルが発展して、個性的な塾が運営されていました。
伊藤仁斎の古義堂:独自の方法論(古義学)で朱子学を乗り越えました。
広瀬淡窓の咸宜園:身分制に縛られないで学問をするために、実力主義(三奪法)を採用しました。
吉田松陰の松下村塾:個性を尊重する教育方針で、数々の志士を育てました。

▼蘭学:日本は外国との交流を避けていましたが、長崎などを通じて入ってくる海外情報を元に、ヨーロッパの学問が研究されていました。
シーボルトの鳴滝塾:西洋医学や植物学等の自然科学を教えました。
緒方洪庵の適塾:ゼミナール形式の勉強で福沢諭吉などを輩出しました。

▼国学:中国とは異なる日本独自の文化を特に尊重して研究する姿勢が生まれていました。
本居宣長の鈴屋:学校というよりは勉強サークルの集会所でした。

▼学者:出版が発達し、学者たちが活躍しました。
貝原益軒:『和俗童子訓』。朱子学者として、体系的な教育書を初めて著しました。
中江藤樹:『翁問答』。朱子学を批判する陽明学の立場で知行合一を唱えました。
荻生徂徠:『政談』。朱子学を批判して現実的な実力主義を唱えました。
石田梅岩:『都鄙問答』。儒教を独自に解釈し、商人を中心とした石門心学を打ち立てました。

小テスト

▼日本の昔の学校地図へのリンク

近代教育制度のはじまり

・1868年、江戸幕府が倒れて明治時代に入り、近代教育が開始されます。

明治時代の基礎知識

*四民平等:身分制度をなくしました。→江戸時代のように身分によって通う学校が異なるということがなくなります。
*廃藩置県:中央集権的な世の中になりました。→江戸時代のように藩によって教育が異なるということがなくなります。
*文明開化:日本の旧来の物や考え方を否定し、西洋の物や考え方を取り入れました。→教育の理念や方法をヨーロッパから学びます。

学制

・明治5(1872)年、「学制」が発布されました。フランスの教育制度を参考にしたり、福沢諭吉(学問のすすめ)に影響を受けたりしていると考えられています。
(1)国民皆学:身分に関わらず同じ内容の教育を受けられます。
(2)立身出世主義:教育は個人の利益のために行なわれます。
(3)実学主義:実際に役に立つ学問を行ないます。
(4)受益者負担:授業料は各家庭の負担となります。
(5)中央集権:文部省の方針が日本全国で貫徹されます。

復習

・江戸時代の教育機関と学者の名前、その特徴について深めておこう。
・「学制」の特徴の理解を深めておこう。

予習

・ヨーロッパの歴史をおさらいしておこう。