【要約と感想】ブルーナー『教育の過程』

【要約】ゆとり教育を終わらせましょう。子どもは想像以上に難しいことを理解することができます。学問の「本質的で単純な構造」を身につけることは、小さな子どもにも可能です。古臭い行動心理学や経験主義を信じて教育に限界があると考えるのはもう終わりにして、私が研究している最新の「認知心理学」の成果を踏まえて、教育を「現代化」しましょう。
 そのためには、子どもたちにただ外側から知識を注入するのではなく、学者がやるのと同じような過程を経て子どもたちが「本質的な構造」を自分の手で「発見」していくような教育課程を実現しなければなりません。その学習過程では、「分析的」な手続きで知識を獲得するのではなく、「直感的」に構造の本質を掴み取るような認知の働きが起こります。そういう教育でこそ、子どもたちは単に知識を身につけるだけでなく、学者と同じような「発見」への確信の態度を深めるなど、「学習のしかたを学習する」ことが期待できるのです。
 このような教育を実現するために、教師の役割はきわめて重要です。教師は教えるべき知識を完璧に身につけていなければなりません。教育課程とは子どもの学習を規制するためにあるのでもなく、教師の創造性を縛るためにあるのでもなく、教師自身の成長を促進するために存在するべきものです。
 まあ、こういう教育への変化は、アメリカがソ連に科学技術で追い抜かれたという安全保障上の危機感が原因でもあるんですけどね。ともかく、せっかくの良い機会でもあるので、アメリカの学校でやたらとフットボールの選手やチアリーダーなどがもてはやされるようなコミュ力重視の愚かな風潮はさっさと絶滅させて、もっと学問的な雰囲気が尊重されるように変えていきましょう。

【感想】教員採用試験に頻繁に登場するブルーナーの名言が登場する、教育学の古典的な作品だ。教員採用試験に出る名言とは、「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができる」というものだ。だがしかし、実はブルーナーはそんなことは言っていないのだった。教員採用試験の問題は、彼の言いたいことの一部を切り取っているに過ぎず、ブルーナーの意図の半分は削り取られてしまっている。本当の文章は以下のようになっている。

「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという仮説からはじめることにしよう。」42頁

 教員志望者から見るとほとんど同じように見えるかもしれないが、いやいや。正しい文章のなかにある「仮説」という言葉が、ブルーナーの学説全体にとって極めて重要な言葉なのだ。この言葉を省いてしまったら、彼の教育論の魅力は半減すると言ってもよいだろう。この大事な「仮説」という言葉を無視するような教員採用試験の問題は、実はブルーナー学説の本質を台無しにしているわけだ。
 どうして「仮説」という言葉が大事なのかというと、本書の最初から最後まで、一貫して「仮説を立てて検証する」という「学びの方法」そのものを身につけることが重要だと主張しているからだ。ブルーナーの主張では、教育とは単に既知の事実を与えるものであってはならない。子どもたちが学者と同じような「態度」を身につけることが決定的に重要だと言っているのだ。この知見を教員採用試験では「発見学習」と呼んでいるが、個人的には誤解を増幅させるような表現だと思う。というのは、単に「発見学習」と言うだけでは、「発見した<知識>が重要」だと勘違いする学生が続出するに決まっている。ブルーナーは「発見するための<過程>と<方法>そのものが重要」だと言いたいのであって、発見された結果としての「知識」は二次的な意義しかもたない。
 それはブルーナーが「分析」よりも「直感」を決定的に重要なものとして議論を展開しているところからも伺うことができる。ブルーナーが専門とする「認知科学」においては、個々のバラバラな分析的知識の蓄積はさほど重要ではなく、全体的な「構造」を一掴みに理解できるかどうかが問題となる。「分析的な<知識>」ではなく「直感的な<認知>」こそが本質的なテーマである。この「直感的な認知」を可能にするためにこそ、「仮説」を立てる力が必要となってくる。学生に大胆な「仮説」を立てるような学びを促すことで、学者のような「態度」や「学びのための学び」が身につくと考えているのだ。そして巧妙なことに、ブルーナーは彼自身の教育論(つまり本書)を、まず自分自身が直感的に大胆な「仮説」を立て、そして後に分析的に筋道立てて検証するという構成で組み立てる。この構成は、彼自身の「仮説を立てる」という教育論を仮説を立てて実証しようとしているわけで、いわばメタ的な構成になっているわけだ。だから、本書が魅力的だったり説得的であったとすれば、それは直ちに彼の教育理論が魅力的だったり説得的であったりすることを意味する。「仮説」という言葉は、本書全体の論理構成と彼自身の教育論をメタ的に結びつける特異点として作用するものなのだ。だからブルーナーのテーゼから「仮説」という言葉を排除したら、魅力が半減してしまうわけだ。
 いやあ、すごい構成だ。全世界的に大きな影響を与える本になるはずだ。感服つかまつった。

【今後の個人的な研究のための備忘録】
 2017年に改訂された学習指導要領は、裏では「ブルーナー・リバイバル」という呼び声もあるとおり、陰に陽にブルーナーの影響を受けていることは疑い得ない。本書のはしばしに、最新学習指導要領の記述と響き合う記述を伺うことができる。

 いちばん響き合っているのは、学習指導要領が言うところの「見方・考え方」という言葉だろう。これはブルーナーが「構造」と「態度」という言葉で表現しているものに対応する。学習指導要領では、小学校から高校まですべての学年において教科の「見方」を身につけることを目指しているわけだが、これはブルーナーが「教科の構造」を極めて重視したことと響いている。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「ますます明確になってきた一つの点は、そのようなことがらにおける構造の重要性ということである。一度この構造の重要性ということが十分に受けいれられると、さらに程度をすすめて、もっともっと年の小さい子どもたちにさらに一そうこみ入った教科を教えることが可能になる。」日本版への序文iv頁

「数学であれ、歴史であれ、その教科の構造を強調すること――つまり、できるだけ迅速に、ある一つの学問のもっている基本的観念についての感覚を生徒に与えようというしかたで、それを強調すること」3頁

「教科の構造を把握するということは、その構造とほかの多くのことがらとが意味深い関係を持ちうるような方法で、教科の構造を理解することである。簡単にいえば、構造を学習するということは、どのようにものごとが関連しているかを学習することである。」9頁

「意図するところは。教育課程を計画する場合に、これまでにしばしば見落とされた、欠くべからざる一点を銘記すべきだということにある。その一点とは、すべての科学と数学の中核をなす基礎的観念や、人生や文学を形成する基礎的テーマは、強力であるが、同時に単純なものであるということである。」16頁

「要点をまとめてくりかえすと、この章のおもなテーマは、教科の課程は、その教科の構造をつくりあげている根底にある原理について得られるもっとも基本的な理解によって決定されなければならないということであった。」39-40頁

 要するに、細かい知識なんてものはいくらでもあとからついてくるから、教育で重要なのは教科の「普遍的な構造」を掴み取ること、ということだ。そのための「直感」である。ブルーナー以前の行動主義や経験主義では研究の対象にすらなっていなかった「直感」というものを、ブルーナーの専門である「認知科学」が捉えているという自信が裏付けとなっているだろう。そして認知科学は、21世紀に入って脳科学なども結びつき、急速な展開を遂げている。2017年の学習指導要領が60年近く前のブルーナー仮説と響き合うのは、「認知科学」という点で基本的な発想を同じくしているせいだろう。

 また、最新学習指導要領が言う「考え方」とは、もう少し丁寧に言えば「方法論の習得」を意味する。単に知識の量を増やすのではなく、未知の現象に触れたときにそれを適切に処理できる様々な考え方を身につけることが重要であり、そのために「方法論」を身につけるという観点だ。これはブルーナーが「態度」という言葉でしめしているものに当たる。たとえばブルーナーは以下のように言っている。

「それは、ある分野で基本的諸観念を習得するということは、ただ一般的原理を把握するというだけではなく、学習と研究のための態度、推量と予測を育ててゆく態度、自分自身で問題を解決する可能性に向かう態度などを発達させることと関係があるということである。ちょうど物理学者が、自然のもっている窮極の秩序と、その秩序は発見できるものであるという確信とに関して一定の態度をもっていると同じように、物理を勉強している若い生徒が、学習することがらを、自分が思考するときに役立つものにし、意味のあるものにするような方法で組織しようとするならば、物理学者のもっている態度をいくらかでもそのまま自分のものにする必要がある。そのような態度を教育するためには、たんに基本的観念を提示する以上のなにかが必要である。」25頁

「そのようなやり方に賛成している議論は、学習がその学問の最前線でしていることと、子どもがはじめてそれに近づくときにしているものの間には連続性があるという想定を前提にしているのである。」35頁

 つまり、学習した結果ではなく、学習の「過程」そのものが重要ということだ。まさに学習指導要領が言うところの「過程を重視した学び」である。
 ということで、ブルーナー理論と最新学習指導要領には極めて近いものがあるのだが、ただブルーナーから60年経っているにもかかわらず、内容がさほど進歩しているようにも見えないのは、多少心配ではある。むしろ学習指導要領のほうが後退しているのではないかとも思えるのは、ブルーナー自身は以下のように言明しているからだ。

「知識を伝達し、有能さで身をしめす模範になるためには、教師は教えることと学ぶことにおいて自由でなければならない。」117頁

 現行の文部行政は、むしろ教師を「教えることと学ぶことにおいて不自由」にしつつあるように見える。本当にブルーナーの理念を実現したいのであれば、学習指導要領の法的拘束力は弛めるべきだろう。学習指導要領の法的拘束力を保ったままで学習指導要領の理念が実現することは、おそらく、ない。

 それから、ブルーナーは大学スポーツが嫌いなんだろうな、という記述がたくさんあって、ちょっと微笑ましい。彼は本当は「大学はスポーツをやるところじゃない」と声を大にして言いたいんだろうけれども、紳士らしくオブラートに包んだ表現になっているのであった。

「わが国の文化的風土は、伝統的に知的価値を高く評価するという特徴をもってきていない。」95頁

「どのようにすればわが国の学校にもっとまじめな知的な格調を与えることができるかということに関して、また一方では体育や通俗性や社交生活と、他方では学問性をもちこむことのどちらに学校は重点をおくべきかに関して大いに議論されている。」97頁

 体育や通俗性や社交生活を排除したくてたまらないブルーナーであったが、彼の望みは60年経った今もさほど変わっていないのであった。いやはや。

 それから、本書の元になった「ウッズ・ホール会議」が、スプートニクショックをきっかけにしていることは教員採用試験にもよく出てくる。本書ではソ連との関係は婉曲的に表現されるだけではあるが、それでも危機感はよく表れていると思う。

「国家の安全に対する危機感から生まれた心配が一度におしよせたこともまた原因であったことは疑えない。」96頁

J.S.ブルーナー『教育の過程』鈴木祥蔵・佐藤三郎訳、岩波書店、1963年