「教育学者」とは私のことか~?(内田良氏の記事への応答)

教員志望者に突きつけられた言葉――大学では教わらない? 教員の苛酷な労働実態」という記事が2019年1/6にアップされたのですが。
この記事は、教員に残業代が支払われないなどブラックな労働環境に対して疑問を呈し、世間の関心喚起を図っています。で、記事の結論は「教育学者」に対しての苦言となっております。内田氏は「現時点で教育学者は、教職を目指す学生の悩みや不安に向き合えているとは、言いがたい」と述べ、「大学に籍を置く教育学者の責任を痛感した」と反省しております。
まあ、私も教育学者の端くれではあります。担当している科目は「教育原理」「教育課程」「教師論」であって、この記事の内容には極めて親和的なテーマを扱っております。内田氏の呼びかけに対して応答する義務があるように感じたので、今つらつら文章を書き連ねているわけであります。

個人的な感覚では、授業内でいわゆる「働き方改革」に触れないのは、信じられません。ふつう扱うでしょう。逆に、どうやったら「働き方改革」に触れないで済ませられるのか、よく分かりません。私の講義の範囲では、特に「チーム学校」や「社会に開かれた教育課程」、さらには「学校運営とカリキュラム・マネジメント」の文脈において手厚く触れるようにしているつもりです。
「チーム学校」や「社会に開かれた教育課程」では、学校外の専門家や保護者の力を学校運営に活かすような制度になった話をしています。特に「部活動」に関しては、学習指導要領上の位置づけの変化を踏まえて話をしています。確かに学生たちの食いつきは(地方公務員法や教育公務員特例法などの話よりも)いいように思います。自分たちの経験からしても身近な話に感じているようです。
また「学校運営とカリキュラム・マネジメント」の文脈では、カリキュラム・マネジメントの3指針の「(3)必要な資源を確保する」の部分で、資源とは具体的には「人・金・物・時間・情報」だとし、特に「時間マネジメント」に絡めて「働き方改革」の話をしています。管理職用の雑誌等で「時間マネジメント」の特集が組まれて「会議時間を短縮するために教員全員が立って会議をする。疲れるので自然と会議時間が短くなる」なんて記事が載っているという話をすると、学生諸君から失笑が漏れます。
ほか、教育原理においては、そもそも「公教育」の原理の話から「社会権」の概念に及び、資本主義の仕組みそのもの(労働力の自由売買が資本主義の本質)に踏み込んだ上で、「労働法」の意義の話もしてします。

以上、個人的な感覚では、講義の中で「働き方改革」についてはそこそこ触れてきたつもりではあるわけですが、改めて内田氏に「教育学者が十分に責務をはたしていない」と断言されると、「その教育学者とは私のことですか?」と身構えると同時に、「ああ、私のことか・・・」と意気消沈もするわけです。どれだけのことを学生たちに伝えられたかを反省してみれば、まあ、忸怩たるものは、そりゃあ、なくはない。
来年度のシラバスを書く時期に差し掛かっているわけですが、本当に学生たちが知らなくてはならないことを、文部科学省が押しつけてきた「コア・カリキュラム」と整合する形で織り込んでいかなくてはなりませんねえ。いやはや。頑張ろう。