教育概論Ⅰ(中高)-4

栄養・環教 5/18
語学・心カ・教福・服美・表現 5/19

前回のおさらい

・かつて「教育」は行われていませんでした。「教育」とは異なる形による発達や成長への働きかけを「形成」と呼びます。
・「成人式」の形は、いまと昔はまったく異なっていました。「死」と「再生」を象徴する儀式を突破して共同体の正式メンバーに加入することを「イニシエーション」と呼びます。
・人々は、学校や教育がなくとも、知恵と経験を後の世代に継承し、生活を続けていました。

日本での近代教育の始まり

・江戸時代中期(西暦1750年頃)あたりから子供に対する意識が変わり始めます。
←生産力の向上、遺産相続への関心、家意識の形成
←商品経済の展開、識字能力の有効性の拡大、寺子屋の増加

寺子屋

寺子屋:一般庶民が自分たちのために必要とした教育機関です。幕府や藩など支配者層が上から押しつけたのではなく、下からの自発的な要求によって自然発生的に増加していきました。
・庶民の生活と要求に対応して、そろばんや習字を教えていました。
※「往来物」と呼ばれるテキストを使っていました。

リテラシー

リテラシー:文字を読んだり書いたりすることができる能力を指します。そこからさらに、様々な道具を使って情報を得たり発信したりすることができる能力のことを意味するようになります。
コンピュータ・リテラシー:コンピュータを使って情報を獲得したり発信したりすることができる能力を意味します。現在はコンピュータ・リテラシーを持っていることが当たり前とされ、学校で習得するようになっています。この能力がないと就職活動すらできません。
・リテラシーと学校:学校に行って勉強する目的の一つは、リテラシーを獲得することです。
・「話し言葉」は意図的にトレーニングしなくても身につけることができますが、「書き言葉」は意図的・計画的にトレーニングすることで初めて身につけることができます。
・かつてリテラシーを持っていたのはごく一握りの知的エリートだけで、大半の人々は文字の読み書きができませんでした。
・最初は一部の意欲のある人々だけが学校に行ってリテラシーを獲得していましたが、リテラシーの有用性が広く認識されてくると、次第に全ての人が強制的にリテラシーを持たされるような制度に変わっていきます。

江戸時代の文化

長期間にわたる平和と繁栄によって、学問が独自に発達を遂げていました。
*儒学:中国発祥の学問ですが、徳川家が推奨したのをきっかけとして、江戸時代の日本で独特の発展を遂げます。昌平坂学問所藩校などで教えられていました。基本的には支配者階級のための学問で、主に武士が学んでいました。
*蘭学:日本は外国との交流を避けていましたが、長崎などを通じて入ってくる海外情報を元に、ヨーロッパの学問が研究されていました。
*国学:中国とは異なる日本独自の文化を特に尊重して研究する姿勢が生まれていました。

明治維新と文明開化

・日本は独自に近代化への準備を始めていました。が、決定的な転換点はヨーロッパとの接触に刺激を受けた明治維新(1868年)となります。
文明開化=日本を文明化から遅れた後進国であると自覚し、多くの日本の伝統的な習慣や仕来りを野蛮な習俗として否定し、西洋由来のモノや制度や考え方を崇拝しました。
明治維新≒西欧列強に由来する国民国家システムと市民社会を学習し、模倣しました。教育制度に関しては、明治5年(西暦1872年)の「学制」が重要な出来事になります。

世界史のなかの明治維新

・かつて、ヨーロッパは貧乏な辺境地域に過ぎませんでした。世界の中心は中華帝国とイスラム帝国にありました。
・西暦1500年あたりから逆転が始まります。
・ペリー来航時(1853年)の世界情勢を踏まえて、ヨーロッパの手が及んでいない地域がどれくらい残されているか考えてみよう。

>1828年:オーストラリア全土植民地化
>1840年:アヘン戦争(中華帝国)
>1853年:クリミア戦争(イスラム帝国)
>1857年:インド大反乱(インド亜大陸)
>1882年:エジプト保護国化(アフリカ大陸)
>1890年:フロンティアの消滅(アメリカ大陸)
>19世紀末:東南アジア、タイ以外植民地化

・日本では福沢諭吉が西欧列強の強さの秘密を理解します。『学問ノススメ』『文明論之概略』。
・表面上の物質的繁栄が重要なのではなく、人間に対する根本的な理解や社会制度の仕組みが重要だと気がつきます。

→資本主義
→民主主義
→国民国家

復習

・日本の教育が近代化する前提を押さえておこう。
・「リテラシー」という言葉の意味と、それが教育に対して持つ意義を押さえよう。

予習

・近代ヨーロッパの歴史をふりかえっておこう。