【新潟県新発田市】新発田城と福勝寺

新発田城は日本百名城にも選ばれている立派な城です。

三階隅櫓が立派です。2004年に復元されたものですが、史実に忠実に再現されているとのことです。

桜の季節は、堀の向こうの隅櫓とコラボして映えそうですね。

が、残念ながら綺麗なのは目に見える部分だけで、城の大部分は消失していおり、舞台の書き割りのようになっているのでした。

案内板に記された縄張図を見ると、もともとは極めて広大な城であったことが分かります。現在残っているのは、ほんのごく一部分に過ぎません。

残された貴重な場所に向かいます。写真を撮っているのは「帯曲輪」というところで、本丸の表門を出たところに造られた、本来は出陣体制を整えるための集合場所みたいなところです。

案内板を見ると、帯曲輪の構造はかなり複雑で、そうとう防御機能が高かったように見えます。

さて、帯曲輪を抜け、いよいよ表門から本丸に入ります。が、まあ、本丸の大部分は消失していて、中はそんなに広くないんですが。
新発田城が素晴らしい名城であること自体に異論はないけれども、百名城にリストアップされるとしたら、むしろ石垣が良好に保存されている村上城も良かったんじゃないかなあというのが個人的な感想ではあります。

本丸には新発田藩初代藩主・溝口秀勝の銅像が建っています。武士なのに甲冑ではなく公家スタイルの銅像というのは他にもいろいろ見ることができますが、多少違和感を持ってしまいますね。どうして公家スタイルなんだろう。

さて、新発田藩の初代藩主・溝口秀勝は関ヶ原の合戦で東軍についたおかげで新発田藩領を安堵されることになりました。が、本丸の案内板では、戦国時代には新発田重家の居城であったとされています。
新発田城から南に1kmほど行ったところに、新発田重家の菩提寺・福勝寺があります。

福勝寺の新発田重家公廟。

寺の案内板にも説明されていますが、重家は織田信長と結んで上杉景勝に謀反を起こし、会津の蘆名家や米沢の伊達家の後ろ盾もあって6年ほどは持ちこたえたものの、新発田城落城と共に命を落とします。

福勝寺門前に据えられた新発田重家の銅像。
新発田城復元の会のWEBサイトが、新発田重家や溝口秀勝の事跡を詳しく紹介しています。
(2014年6月訪問)