【要約と感想】天谷祐子『私はなぜ私なのか』

【要約】「私」というものに実存的な疑問を抱くのは、小学校高学年から中学校にかけてのことです。全ての人が自我体験するわけではありませんが、一部の人しか体験しないような特別のものでもありません。しかし高校生に上がると、多くの人がその疑問を忘れてしまいます。

【感想】貴重な実証研究だと思った。「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、どれくらいの人がどれくらいの時期に抱き、どれくらい持続してどれくらい影響を与えるのかという、客観化が恐ろしく困難な課題に粘り強く取り組んだ研究だ。結果もなかなか興味深く、とてもおもしろく読んだ。実証的なデータとして、今後も参照材料とさせていただきたい。

が、まあ、疑問なしとはしない。特に、「私はなぜ私なのか」という実存的な疑問を、あたかも普遍的な問題として扱っているように見えるのには、問題の本質を捉え損なう可能性があるのではないかと危惧する。というのは、「私」というものが実存的なテーマの対象となるのは、私見では、近代以降のことと思われるからだ。普遍的な問題ではなく、時代に制約された問題だと思うのだ。
たとえば前近代に「私」というものが成立していなかったことは、フーコーとかギンズブルク等の仕事を参照すれば分かりやすい。あるいは、たとえば明治後期以降の日本文学において実存的な疑問は文学的テーマとなり得るように見えるが、明治前期以前の作品に見出すことは難しい。坪内逍遙や幸田露伴や尾崎紅葉が実存的なテーマを扱っているようには見えない。このあたりは柄谷行人あたりも言及していたように思う。
つまり、「私」が統合されて一つであるべきだというアイデンティティの意識自体が歴史的な産物である疑いがあって、これを本書のように人間の普遍的な傾向と前提してしまうと、様々な可能性を見落とす恐れがあると思うわけだ。

さらに、「私1」と「私2」という記述について。私自身の理解によれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、人間存在に対する「形式/内容」の峻別に対応していると思われる。または「人格/個性」の概念的区別と言ってもいい。私の理解では、このような「形式的な人格」と「内容的な個性」の峻別は、近代(市民社会と資本主義と国民国家)を成立させる上でどうしても必要なフィクションだ。近代を成立させるためには、個人差の内容を完全に捨象して全ての人間を同一の単位と見なす必要がある。侍と農民を区別するような身分制においては、近代の政治と経済は作動しない。全ての人間を形式的に平等な「一」と見なすことで、初めて近代の政治と経済は正常に作動することができる。しかしそれは逆に、近代を成立させるために、人々に対して「形式的な人格」と「内容的な個性」を峻別させるような有形無形の圧力が具体的に加えられるということでもある。この圧力が「私1=形式的な人格」と「私2=内容的な個性」をズラし、「私(形式的な人格)はなぜ私(内容的な個性)なのか」という疑問を生じさせる。「私はなぜ私なのか」という疑問を生じさせるメカニズムは、近代という時代が人々に加えている圧力の存在を抜きにしては見えてこないのではないか。
著者も「あとがき」において、「自我体験における「私1」は、私たち人間が生存している範囲内で、仮定として想定しているもの」(169頁)と言っている。それ自体は問題ない。というか、近代という時代では当たり前の想定とも言える。が、それを「結論を出してしまった」と言ってしまうのは、正直、ちょっとどうかと思った。そこは結論どころではなく、考察のスタート地点に過ぎないだろう。この問題の本質は、「どうしてそういう仮定が必要なのか?」というところにあるはずだ。私の理解では、そういう「仮定」が必要なのは、それこそが近代という時代を成立させている鍵だからだ。だから、その仮定の土台を掘り下げていけば、近代という時代の本質を捕まえることができるはずだ。スタート地点に立っただけで、その下に豊かな鉱脈が眠っていることに気がつかず、「折り合い」がついたと言われても、私としては「もったいない」としか言いようがない。

もう少し敷衍してみれば、著者の言う「私1/私2」の区別は、文法で言うところの「主語/述語」の違いに対応する。英語で言うと「I/me」の区別となる。ジェームズが言うような「I/me」の区別は、文法的に言えば「主語/述語」の区別となる。そしてこれは、哲学的に極めて重要なテーマだった。たとえばプラトンやアリストテレスは、主語がどうして主語なのかを追究している。述語としての「私」は現実的に多様であるのに、どうして主語としての「私」は同一性を保持できるのかという問題を、彼らは追究した。プラトン(特に後期)は自我同一性が厳密に成立するのは神だけだとしつつ、人間は神と獣の中間の「エロス的主体」として自我同一性が成立すると言ったし、アリストテレスは「神」の概念を追究する過程で、神とは「常に主語であり、決して述語にならないもの」というようなことを言った。本書が言う「私1=主語」の同一性が成立するのは、プラトンやアリストテレスの論理で言えば「神」だけなのだが、彼らはその地点から人間の同一性の根拠をさらに掘り下げていった。西洋において近代が成立したのは、主語の同一性を対象として考察を積み重ねたプラトンやアリストテレスの伝統が土台にあるからかもしれない。
かたや日本語の場合、主語の「私」も述語の「私」も同じ「私」として表記される。あるいは、主語を表記すること自体を避ける傾向にもある。「私1」を「主語」として理解した場合、日本においてはそもそも「私1」を成立させる言語的条件が歴史的に存在していなかった可能性があるのではないか。
だとしたら、本書が検討していたのは、実は人々の自我体験ではなく、近代西洋語の影響によって変容を被った後の「日本語の主語=述語の関係構造」だったのではないか。特に日本語における「主語」というものの機能と働きが大きく変化したことによって、前近代には起こりえなかった「I/me」のズレが生じたという事態を浮き彫りにした研究だったのではないか。「主語としての私の単一性」と「述語としての私の多様性」が言語的な矛盾として意識されるのが小学校高学年から中学生にかけてということだったのではないか。問題の本質は「心理」ではなく「言語」ではなかったのか。

が、まあ、そのあたりは私の仕事として追究すればいいところではある。本書の丁寧な実証研究に意味がないということではない。参照に値する貴重な本であることに変わりはない。

天谷祐子『私はなぜ私なのか―自我体験の発達心理学』ナカニシヤ出版、2011年