【要約と感想】小玉重夫『学力幻想』

【要約】学力の問題をしっかり考えるためには、それが単に教育実践に限った話ではなく、高度に政治化していることを理解する必要があります。その自覚が欠けていたので、学力低下論争はつまらないものになりました。学力が政治化していることを理解するためには、「子ども中心主義」と「ポピュリズム」を反省するところから始めなければなりません。そして、「教える」ということの復権と、「大人になること」の明確化が、学力の政治化に対応する鍵となります。

【感想】さすがに凡百の学力低下論からは一線を画していて、単に学力について論じるのではなく、どうして学力が問題になるのかという状況と歴史的経緯をメタ的にすっきりと切り分けてくれる。学力が問題になっているということそのものが問題なのであって、そのメタ認識を持たないままで学力論争自体に突入していっても得るものは極めて少ないことを教えてくれる。

大雑把に言えば、学力が問題になるということは、社会そのものが根底から変化していることを示す徴候だ。これまで問題なく通用していた学力観が社会の変化によって賞味期限切れを起こし、学校や公教育の新しい形が模索されていることのサインだ。しかしその根底的な社会変化を問わずに単なる学力問題へと矮小化してしまう現象を、著者は「学力幻想」と呼ぶ。

「学力幻想」を引き起こしている原因として、著者は「子ども中心主義」と「ポピュリズム」を問題にする。その問題を克服するためには、教える側の公共性の論理を立て直すと共に、「大人になるとはどういうことか」について新しい基準を打ち立てることが鍵になると言う。

教える側の公共性の立て直しについては、教師の専門性と同僚性という概念が焦点になるのだろう。「大人になること」については、実践的には18歳成人の問題とも絡んで、子どもと大人の境界線の再構成の在り方が焦点となる。ここに著者がライフワークとしているシティズンシップ教育が、問題解決の鍵として立ち上がってくる。

あと、「学力の市民化」ということに関しては、ヘルバルトが言っている「多方の興味」とカブっている感じはした。「できることと考えることの区別」は、いわば「専門教育/普通教育」の違いに帰結するはずだ。具体的な教授方法に関しても、ヘルバルトの言う「多方の興味」がぴったり当てはまる。ここは新しい概念を作って屋上屋を架すよりも、教育基本法や学校教育法にある「普通教育」という概念をシティズンシップと関連させて復権する方がわかりやすい感じもした。

小玉重夫『学力幻想』ちくま新書、2013年