【要約と感想】国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』

【要約】教育は、コンテンツ・ベース(知識・内容)からコンピテンシー・ベース(資質・能力)重視に変わらなければなりません。そして、具体的な実践では、知識か能力かどちらか一方が重要と決め込む必要はなく、上質な知識を身につけながら資質・能力を伸ばすというふうに、両方を調和的・総合的に育成することが成功の秘訣です。

【感想】引用・参照文献も多く、論理構成もスッキリわかりやすく、具体的な実践に対する配慮もあって、この種の本としては最良の部類に入る本だと思った。コンピテンシー・ベースで教育を改革しようとする立場の人々が言いたいことが、とてもよく分かる。現場の先生にとっても、大いに参考になる本だろう。そしてそのぶん、この種の考え方の死角や落とし穴というのも、わかりやすく見えてくる気がする。

まず教育原理の専門家として気になるのは、「人格」と「資質・能力」の関係だ。まあ、当然執筆者たちも気にしていて、しっかり「資質・能力と人格の関係は?」というタイトルの節を用意して、自分たちの立場を説明している。が、これを読む限りでは、教育学が伝統的に問題にしてきた「人格」をしっかり理解した上で記述しているとはとても思えない。というのは、「人格」にまつわる「尊厳」の話が一切出てこないし、「人格の尊厳」というものに対して配慮しているとはとても思えない寒々とした記述になっているからだ。
たとえば歴史的には悪評高い『国民実践要領』(1953年)ですら、「人格の尊厳」について「人の人たるゆえんは、自由なる人格たるところにある。われわれは自己の人格の尊厳を自覚し、それを傷つけてはならない。」と宣言した上で、「真に自由な人間とは、自己の人格の尊厳を自覚することによって自ら決断し自ら責任を負うことのできる人間である。」と述べた。あるいは悪評高い『期待される人間像』(1966年)においてすら、「人間が人間として単なる物と異なるのは、人間が人格を有するからである。物は価格をもつが、人間は品位をもち、不可侵の尊厳を有する。基本的人権の根拠もここに存する。そして人格の中核をなすものは、自由である。それは自発性といってもよい。」と述べている。ここに残っているある種の格調高さが、本書には微塵も存在しない。「人格の尊厳」に対する敬意は、いつの間にか知らないうちに失われ、顧みられなくなったもののようである。

その姿勢とも絡むのだろうが、本書からは「できない子」に対する温かい眼差しを感じることができない。「できない子」など最初から存在しないかの如く、あるいは存在するべきではないという態度で記述が進んでいく。しかし本当にどの子供も本書に描かれた資質・能力を備えた「できる子」になれるのだろうか? そして「できる子」だろうが「できない子」だろうが、同じく人間として触れあう所に「人格の尊厳」というものが生まれるんじゃないだろうか。全ての子供を一律に「できる子」に育てられるかのような、あるいは「できない子」の苦しみがまるで視野に入っていない書きっぷりは、なかなか清々しくもあるが、これで大丈夫だろうかという危惧も強まる。人間の「弱さ」に対する感受性を視野の外に放り出して、教育という営みは成立するのだろうか?

ということで、学術的な仕事としては、「人格」という言葉の持つ意味がいつの間にかズレていること、そして多くの教育関係者がそのズレを自覚していないことに対して、しっかり吟味を加えていかなければならないと感じた。ポイントは、1960年代後半から1980年代前半までの情勢にあると直感しているわけだが、さて、どうだろうか。

国立教育政策研究所編『資質・能力[理論編]』東洋館出版社、2016年