【要約と感想】東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション』

【要約】東京大学教育学部が付属校と一緒に、総力を結集して挑んだカリキュラム改革の理念と実践記録。

【感想】個々の論文は、それぞれとても参考になる。言語力育成や、学校図書館利用や、ライフキャリア・レジリエンス教育や、シティズンシップ教育や、哲学教育など、具体的な実践の試みは、どれも興味深く読める。時間をかけて工夫して授業を作り上げていった様子がわかって、頭が下がる。

が、執筆者のスタンスは、もちろん全員一致しているわけではない。「社会に生きる学力」という本書を貫くはずの理念に対して根本から疑念を呈している論文がいくつかあって、なかなか面白かった。
たとえば金森修「カリキュラム・ポリティクスと社会」(123-135頁)は、「社会に生きる学力」が単に現状肯定の迎合や追認に陥る可能性を危惧し、教師に期待されるのは産業社会を超えるビジョンを示す力であると言う。また牧野篤「社会における学びと身体性 市民性への問い返し/社会教育の視点から」(195-208頁)は、学校のカリキュラムが社会的なレリバンスを欠くと批判することは単に目先の社会的な養成に基づく人材育成を志向し、個人の内面に社会的な価値を植え込み、自己実現の自由を否定することに繋がりかねないと危惧する。このような危惧の根底には、文部科学省がどんなに綺麗事のキャッチフレーズを持ち出そうとも、現今の教育に期待されているのが結局は産業社会に資する人材を供給すること、という認識がある。そして、『学習指導要領』がそういう国是を疑いもせずに大前提にしているという認識がある。

本書のところどころで婉曲的に言及されるが、『学習指導要領』というものに法的拘束力があり、現場の教師の創造性に一定の枠を嵌めている現状においては、本当にカリキュラムをイノベーションすることなどできるわけがない。本書のような創造的な取組みが行われることでハッキリと浮かび上がってくるのは、教育行政の分権(個々の学校の自由なカリキュラム構成権や教科書採択権などを想定)という条件が欠けているところでカリキュラム・イノベーションを云々しても、最初から限界が見えているということだ。各学校は、あらかじめ文科省に枠組みが決められた範囲の中で、抜本的な解決には程遠い細々とした創意工夫を積み上げていくことしかできない。
しかし難しいのは、教育行政の分権を進めたところで、結局は新自由主義的な大枠の下、教育がglobal economyの荒波かlocal communityの狭い利害関心に取り込まれてしまい、一人ひとりの子供の個性を尊重して自己実現を目指すものとなるのかどうかという危惧が拭えないというところだ。果たして「社会に開かれた教育課程」は、どのように一人ひとりの「人格の完成」と結びつくのか。

いろいろ考える材料を与えてくれる本ではあります。

東京大学教育学部カリキュラム・イノベーション研究会編『カリキュラム・イノベーション-新しい学びの創造へ向けて』東京大学出版会、2015年